(筆洗) 警察官が若者に発砲 - 東京新聞(2019年10月4日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019100402000124.html
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シェークスピアの戯曲『シンベリン』で、無実の罪により国を追われた貴族が語る。<あの上から見おろすと、おれがカラスぐらいに見えるだろう、つまり、ものが大きくも小さくも見えるのは位置のせいだ>。一つの現実であっても、どこに立つかが違えば、別のものに見えると。
同じ日の同じ国でも、別の姿が見えて驚くことがある。一日北京であった中国建国七十周年を祝う国慶節の式典は、軍事力を誇示する大国の姿があった。最先端の兵器が登場し、整然としたパレードがあった。習近平国家主席は演説で自らの権威を示した。
遠く離れた香港で同じ日に繰り広げられたのは、大国が国威を発揚する姿ではない。暴力的なデモ鎮圧の光景だ。警察官が若者に発砲する映像が痛ましい。
至近距離から銃口を胸に向けている。撃たれた男子高校生が一命を取り留めたのは何よりだが、香港警察が一線を越えた衝撃は残る。
デモがさらに先鋭化するおそれもある。民主化の動きが力で押しつぶされないか。「政権は銃口から生まれる」と言ったのは毛沢東だ。北京でのパレードにその言葉を思った。香港の光景も同じ思想の表れでないことを祈る。
『シンベリン』の貴族は、見る人によって<忠義も忠義とはならぬ>ものだと嘆いている。警察は自衛のための発砲としているそうだが、国の外から見えるのは今後への不安である。