(余録)ヨーロッパ映画「少年と自転車」(2011年)は… - 毎日新聞(2018年10月28日) 

https://mainichi.jp/articles/20181028/ddm/001/070/072000c
http://archive.today/2018.10.29-001710/https://mainichi.jp/articles/20181028/ddm/001/070/072000c

ヨーロッパ映画少年と自転車」(2011年)は、施設に預けられた母のない少年が、父親に見捨てられる話だ。少年は悪い男に優しくそそのかされて強盗を犯す。男を父の代わりと信じたかったのだ。
2度裏切りにあった少年を養い親として迎え入れたのは、赤の他人の女性美容師だった。かつて父親に買ってもらった唯一の宝物である自転車を、女性の自転車と交換し、2人で走る場面には、信頼できる大人と巡りあえた喜びがにじんでいた。
監督のダルデンヌ兄弟は、日本で聞いた少年犯罪の実話を基に脚本を書いた。その少年はいつも施設の屋根に上って親を待っていた。「もう下りてきなさい」。そう職員に促され、人を信じなくなり、やがて重大事件を起こした。
高級店が並ぶ東京・南青山に、虐待にあったり非行に走ったりした少年少女を一時保護する児童相談所ができる。計画に一部住民が「街のブランド価値が下がる」と反対しているそうだ。どんな街でも景観や雰囲気は大切にしたい。
しかし、児童相談所原子力発電所やゴミ焼却場といった「迷惑施設」のように嫌われるのだとしたら首をかしげる。建設に賛成の住民もいるだろう。ここは地域の良識を静かに見守りたい。
街には不思議な力がある。全て明るく整いすぎると、意外に平板で活気に乏しい。表通りがどんなに豪華でも、ちょっと裏道に入ったら思いがけない陰や生活の息吹を感じる時、街は生き生きと人間らしい顔になる。経済的評価だけが価値ではない。

(関連サイト)
映画『少年と自転車』オフィシャルサイト
http://www.bitters.co.jp/jitensha/

少年と自転車」と日本 - 映画『少年と自転車』オフィシャルサイト
http://www.bitters.co.jp/jitensha/critique.html
http://web.archive.org/web/20160427091000/http://www.bitters.co.jp:80/jitensha/critique.html

傍らにいてくれる「おとな」の存在の大切さ 〜わたしの話から生まれた映画「少年と自転車」を観て〜
石井小夜子(弁護士/著書「少年犯罪と向きあう」岩波書店刊)

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の映画は、子ども・若者・困難をかかえる人々に目をむけ、彼らが置かれている社会を常に考えさせてくれます。その敬愛し、大好きな監督がわたしの話にインスパイアされて作られたというのが本作とお聞きし、とても嬉しかったですし、光栄に思います。
2003年9月。『息子のまなざし』の公開に先立って、「少年犯罪」をテーマに監督をまじえてパネルディスカッションが行われました。

*以下、石井弁護士の発言の要約
今日の映画(『息子のまなざし』)に登場する少年フランシスがあまりにもか細く、わたしが担当したある少年を思い出していました。もちろんすべての少年が同じではありませんが、すべてが同じでない、ということをふまえてお話したいと思います。
わたしが担当した少年はずっと施設で育ち、ある重大な事件を起こして、現在は少年院にいます。その少年は暴走族の中で事件を起こしたのですが、彼は家がないということもあり、暴走族が自分の家だと思うと同時に「いつか裏切られるのではないか」「いつか見捨てられるんじゃないか」という思いがあったようです。親はいるのですが「育てられない」ということで、少年は赤ちゃんの時から施設にいました。施設の問題というより、むしろ親との距離の問題ではないかと思います。何カ月かに1度、親が施設に会いに行くということを約束したのですが、その約束が守られない。10歳頃までは、いつも施設の屋根に登って親が来るのを待っていたそうですが、ある時、施設の方から「もう降りてきなさい。中に入りましょう」と言われ、その日以来、もう親を待たなくなったといいます。その最後の思い出はとても強かったようで、以来、彼は人を信じることをやめ、信じないことで自分を守ろうとしました。施設を出てからも、自分が受けいれられると感じた暴走族のグループであっても、裏切られないためには自分の存在を示さなければいけない、そのためによりひどい暴力を振るうようになったのです。  (2003年9月12日、憲政記念館講堂にて)

パネルディスカッションの終了後、監督から「よいお話をありがとう」と言葉をかけていただいたことを思い出します。そして、監督がこのエピソードをしっかりうけとめてくださったことが、映画をみているとよくわかります。
作品は、あたたかい雰囲気で全体がつつまれています。おとなとの関わりがテーマですが、少年の目で、少年自身の生を描いている。「あたたかい雰囲気」はおとなが醸し出しているものではないかと思いますが、それが少年のなかに染みこみ、少年のものになっていくさまが伝わってきます。

シリルは11歳ですが、パネルディスカッションで語ったエピソードは少年が10歳くらいのころです。わたしがこの少年に出会ったのは17歳のときでしたから10歳のときの彼は知りません。ですが、映画に登場するシリルの顔つき・動きは彼そのものだ! と思い、前半は涙がとまりませんでした。
この少年は、「信頼して裏切られるより、最初から信頼しないほうが傷つかない」という身構えがいつのまにか身につき、自分を閉ざしていきます。誰も信頼できず、非行仲間からもいつ捨てられるかわからないとびくびくし、いつも他人の顔をみて生きてきました。そして、シリルのようにいつもいつも父親を求めていました。

親がいない子ども、いても虐待されたりシリルのような子どもに出会うことがたびたびあります。そういう子どもたちをどう支えるか、少年犯罪を考えるとき不可欠なテーマです。「親を忘れて自分の力で生きていけ」と言いがちですが、わたしには言えません。子どもはいつでも親を思っているし、そんなことを言えば子ども自身の存在すら否定してしまうのではないか、と思うからです。
サマンサはシリルを導くわけでも親の代わりをするわけでもない。特別な構えもない。ただシリルの傍にいて、心配する、怒るときは怒る、伝えるべきは伝える、おとなの手助けが必要なときはおとなの役割を果たす。こういう存在です。「このようなおとなが傍にいる」と子どもが思えるとき、子どもはそこで自分を作っていくことができると思います。最後にシリルが「自分の罪」を引き受けることができたのも、サマンサが傍にいてくれると実感しているからだと思います。

ですが、そこにいたるシチュエーションはとても難しいことも事実です。子どもが、「このおとなはこのように自分に向きあってくれている人なのだ」と実感できないといけない。映画では、父親に拒絶され、その場にいたサマンサがシリルの悲しみを共有してくれた、そこが出発点だったような気がします。そして、シリルが11歳だったこともよかったと思います。
シリルを犯罪に巻き込む青年が登場します。シリルと同じホーム(施設)の出身者です。彼は犯罪を繰り返し、しかも年少者を使うという卑劣な青年です。もしもこの青年がサマンサのような人ともう少し前に出会えていたら、と思います。年齢が重なっていくほど内部の悲しみはオリのようになって積み重なり絶望へと向かいます。これを取り除くのは大変で、人への信頼を築いていくには時間がかかるのではないでしょうか。わたしが語った少年をみてそう思うのです。
けれども、それでも遅くはない。彼らに向きあうおとながいたことは彼らの中に埋め込まれ、すこしずつ変わっていける。多くの出会いからわたしはそう感じています。
シリルは「問題児」だから周囲が彼の苦しみに気がつきやすいですが、「問題」をおこさない子どもにはなかなか目がいきません。幼ないとき両親が離婚して親戚に預けられた少年がいました。母親は「必ず迎えにいく」と彼に言い続けましたが、実現はしませんでした。母親にも事情があったのですが、きちんと説明していませんでした。この少年はおとなしく、問題をおこすことはない“良い子”で育ちました。中学校を卒業してガールフレンドができます。しかし基本的信頼関係が築けていない彼は人との関係において距離感がつかめません。彼女との関係は支配的になっていき、事件をおこしてしまいました。親戚でも先生でもよいのですが周囲のおとなが彼の悲しみや苦しみに気がついていたら、と思います。子どもはどこかで“サイン”を出している。水を流しっぱなしにしているシリルの悲しみに共感するサマンサのような人がいたら、と思わずにはいられません。

少年犯罪については、表面的なとらえかたがますます広がっていっています。法律上でも厳罰化がすすみ、「犯罪をしたのだから子どももおとなも変わらない、同じ罰を!」という風潮も生まれています。裁判員裁判が導入されてからますますその傾向がみられるように思います。けれども犯罪をおかした子どもと出会えば、とてもそんな気持ちにはなれません。
親から虐待(ネグレクトも含む)をうけてきた子ども、ドメスティックバイオレンスのなかで育った(これも虐待に該当します)子ども。心に深い傷を負った子ども。そういう子どもがどんなに多いか。このような環境で生きざるをえない子どもの多くは、自分のことが嫌いです。いつも怒りを溜め込んでいるのに、それは「何?」、それが「何で?」という、自分ではコントロールできない感情で犯罪にいたる。シリルを犯罪に巻き込んだ青年が祖母には優しい青年であったように、多くは優しさを持ち合わせている子どもたちです。自分の罪を引き受けるためにも、少年犯罪を防止するためにも、サマンサのような「自分を助け、支えてくれるおとながいる」と子どもが思える人の存在こそが必要で大事なことだと思います。

少年犯罪に対しては厳しい状況になっていると言いましたが、実はわたしの周辺(少年法「改正」反対運動から生まれた市民グループ「子どもの育ちと法制度を考える21世紀市民の会=略称:子どもと法・21」*)ではサマンサのようなおとなが結構いますし、日本のなかでもそういう活動をしている人は少なくないと思います。サマンサが専門家でなく地域で生活する人であったことも説得的です。専門家による支援も必要ですが、そればかりでシステム化していくと、「自分の管轄外」となり、ひとびとの子どもに対する視線は厳しくなっていくのではないか、と思うからです。

映画の後半に、シリルは父親が購入してくれた(でも、サマンサが買い戻してくれた)自転車と、並行して走ってくれていたサマンサの自転車を交代して乗る。シリルが自立に踏み出すシーンで、とても印象的です。シリルにはまだ危なっかしさが残っています。でも、「サマンサが見守ってくれている」という信頼はなくならないでしょう。
本当にすばらしい映画をありがとうございます。心から感謝を申し上げます。