(余録)「わずかな表情の変化で深い内面を表していた… - 毎日新聞(2017年10月7日)

https://mainichi.jp/articles/20171007/ddm/001/070/177000c
http://archive.is/2017.10.07-004911/https://mainichi.jp/articles/20171007/ddm/001/070/177000c

「わずかな表情の変化で深い内面を表していた。高峰秀子(たかみね・ひでこ)や原節子(はら・せつこ)を思わせる」。ノーベル文学賞を受賞する日系英国人作家カズオ・イシグロさんは自作の映画化に際して来日し、英主演女優をそう絶賛した。
5歳の時に長崎市から英国に移住したイシグロさんが2人の日本人女優を知るのは、ずっと後、母親と一緒に1950年代の日本映画をテレビで見た時だった。描かれていた障子や畳の部屋が幼時の記憶を瞬時によみがえらせたのだ。
「初めて小説を書いたのは長崎での記憶をとどめたいという衝動からです。人は何をどう記憶し、どう語るのか。記憶によって自己がいかに形成されるのか−−ずっと関心をもってきました」。小紙のインタビューにそう語っていた。
代表作「日の名残り」は英国貴族につかえた執事の回想である。誇らしげに語る記憶の裂け目からやがて大きな悔恨が姿を現す。丸谷才一(まるや・さいいち)さんは解説で「男がこんなに哀れ深く泣くイギリス小説を、ほかに読んだことがない」と記す。
2年前のファンタジー仕立ての長編「忘れられた巨人」は、人々が忘れたがっている記憶がテーマだった。過去の集団的怨恨(えんこん)が突然よみがえって隣人同士が殺しあった近年の民族紛争、それに触発されて描かれた老夫婦の冒険という。
英日の文化も、SFやファンタジーなど小説のタイプも、自在に越境してつむがれる記憶と忘却の物語だ。昔、母親に日本語で読み聞かされたシャーロック・ホームズの記憶が生んだ世界文学の富である。