国賊扱い、今も惨めさ鮮明 ハンセン病元患者の藤田三四郎さん語る:群馬 - 東京新聞(2016年8月26日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201608/CK2016082602000190.html
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「国辱病」「非国民」−。ハンセン病は太平洋戦争当時もこう呼ばれ、患者らは虐げられたという。兵役に適した強い体を求める国は、強制隔離政策の推進を強化。軍の配属先で発症し、草津町の国立療養所栗生楽泉園へと送られた元患者の藤田三四郎さん(90)は「国賊のような扱い。惨めでした」。七十一年前の体験を今も鮮烈に記憶している。
藤田さんが左腕に違和感を覚えたのは一九四五年五月ごろ。陸軍航空整備兵として宇都宮にいた時だった。やけどがいつまでも治らず、陸軍病院では軍医が「貴様は伝染病だ」。狭い個室に押し込められ、鍵をかけられた。窓には金網と鉄格子。トイレにも行けず部屋の中で用を足した。
看護師に聞いても病名は教えてもらえなかった。しばらくして「草津に同じ病気の患者がいるから行くように」と命じられ、兵役免除を言い渡された。「死んだ方がまし」と首をつろうとしたが、母の顔が浮かび思いとどまったという。
宇都宮駅で列車に乗る際、背後に付いた衛生兵に消毒剤を振りまかれた。周囲の人々の突き刺さるような視線。列車に乗り込もうとすると、「らい患者護送中」と書かれた車両の張り紙が目に入った。「髪の毛が逆立つような感覚がしました」。草津の駅に着くと衛生兵は逃げるように去っていった。迎えに来た軽症患者と徒歩で栗生楽泉園に向かい、着いた時には夜中になっていた。
国がハンセン病患者の強制隔離政策を始めたのは〇七年の法律「らい予防に関する件」から。三一年の旧「らい予防法」制定で隔離対象は全患者に拡大。その後、太平洋戦争が始まり、兵役に適した強い体を求める時勢の中、「健康は身のため国のため」といった標語の下、国の政策は一層推進された。
自治体や警察が強制的に療養所に送り込むことが多く、身体拘束を伴う事例も。入園者数が増えるとともに各地の国立療養所の衛生環境は悪化。藤田さんも「ノミやシラミ、南京虫に襲われ眠るどころではない。食事も麦飯とおつゆが一杯と貧しいものでした」。職員は少なく、重症患者の世話をする「義務看護」や、死亡した患者の火葬など厳しい労働を強いられたという。
隔離政策は法律廃止(九六年)まで続いた。戦後、元患者らの人権回復を訴え、同時に戦争当時の体験を語り続けてきた藤田さん。「私たちは日の丸を汚す存在とされた。戦時下では鉄砲弾を作る方が大事で、弱者の人権なんてどうでもよくなってしまうんですよ」と憤った。