繰り返された人権侵害 ハンセン病隔離法廷前から - 東京新聞(2016年4月26日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201604/CK2016042602000246.html
http://megalodon.jp/2016-0806-0936-00/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201604/CK2016042602000246.html

一九四八〜七二年、ハンセン病患者の裁判を療養所や刑務所などの隔離施設で開いた特別法廷について、最高裁は二十五日、違法性を認めた上で「患者の人格と尊厳を傷つけた」と謝罪した。だが、療養所ではそれ以前、患者を裁判を経ずに懲罰施設に収監した上、死者を出すなど、より深刻な人権侵害が繰り返されていた。 (清水祐樹、写真も)
三八〜四七年に群馬県草津町国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」にあった通称「重監房」には、全国の療養所から窃盗や詐欺、隔離政策に反抗して療養所から逃走するといった問題があったとされた患者が延べ九十三人収監され、寒さや栄養失調などから二十三人が命を落としたとされる。
重監房は高さ四・五メートルのコンクリートの壁に囲われた木造平屋。正式名称は「特別病室」だったが、実際には八つの監禁室があり、最長五百四十九日、一人平均百三十五日間も入所者を監禁した懲罰施設だった。
残された資料が少なく、詳しい実態は不明だが、ハンセン病への偏見や差別により、起訴や裁判など通常の司法手続きを経ずに患者が収監されたとされる。
同園入所者自治会発行のガイドブックなどによると、監禁室はトイレ用の穴を含めて四畳半ほどの狭さ。明かり取りの窓があるだけで非常に暗く、冬に氷点下二〇度にもなる極寒の中、一日二回の食事も木製の弁当箱に入れられたパサパサの麦飯に一、二切れのたくあんか梅干し一個が添えられただけだったという。
自治会長の藤田三四郎さん(90)は「ミイラのようになって亡くなった収監者がいると聞いた。ハンセン病というだけで死ぬまで閉じ込められた。あまりにむごすぎる」と語気を強める。
重監房は戦後の四七年、国会で問題視されたことから廃止され、建物は人知れず朽ち果てた。藤田さんらは、この重大な人権侵害の事実を後世に伝えようと、重監房の復元などを呼び掛け、二〇一四年には園内に一部を復元した重監房資料館が完成。跡地も保存され、公開されている。
重監房資料館の北原誠主任学芸員(61)は、重監房が廃止された翌年の一九四八年から特別法廷設置が始まった点に着目する。「表向きは正式な裁判をすることで、法的人権を守ったというパフォーマンスだったのだろう。結局は、ハンセン病への差別や偏見は、司法も含め社会全体で根強く残っていたということだ」と指摘した。

<監房と特別法廷> 大正時代に国の隔離政策の一環で、各療養所に逃亡や反抗をした患者を収監する「監房」と呼ばれる監禁所が作られ、各療養所長が懲戒検束権という処罰権限に基づき、収監した。栗生楽泉園の重監房には、特に問題があったとみなされた患者が、全国から集められた。ともに戦後に廃止され、罪に問われた患者は裁判を受けるようになったが、社会から隔離された療養所や刑務所など隔離施設での「特別法廷」で裁かれた。最高裁は25日、特別法廷の設置許可の手続きが違法だったとして謝罪した。