(私説・論説室から)「障害者」という幻影 - 東京新聞(2016年2月29日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2016022902000141.html
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二〇二〇年東京パラリンピックを控え、障害者がよくメディアに登場するようになった。スポーツやアール・ブリュット、農業と福祉の連携…多彩な活躍ぶりを知るにつけ、共生社会のあり方を考えさせられる。
ただ、かねて気になるのは、メディアの伝え方だ。例えば「困難を乗り越えて、素晴らしい業績を上げた」といった美談調子。健常者はどんなメッセージを読み取るか。
「障害を克服しながら、あんなに頑張っている人がいる。私には幸運にも障害はないのだから、もっと頑張らなくちゃ」。そんなふうに障害者の奮闘を人生の肥やしにすることもあるだろう。でも、そうやって紹介された障害者は、違和感を覚えるに違いない。
批判をおそれずに言えば、障害者にとっては、障害のあることが「健常」なのだ。克服すべき課題はそこにはない。だが、健常者にしてみれば、それが困難の元に見える。乗り越えるべき課題に映るのである。
障害者は、自らの障害をいつも意識して暮らしているわけではあるまい。道路に段差があったり、筆談を拒まれたり、メニューに点字がなかったりして初めて不自由、不平等を認識させられるのではないか。
困難や試練の元は、社会の側にある。自戒を込めて思う。そんな社会の不備に気づいたとき、目の前にいる取材相手は、もはや障害者ではなくなるのである。 (大西隆