よかれと思ってなのは分かっている「学校来てね」に葛藤する不登校児童 - ldnews(2018年8月9日)

http://news.livedoor.com/article/detail/15133297/
https://megalodon.jp/2018-0810-1819-24/news.livedoor.com/article/detail/15133297/

【#withyou 〜きみとともに〜】「学校でつらいときは興味を示してくれなかったのに」「『行かなきゃ』というプレッシャーになってつらい」ーー。学校に行かない、もしくは行けない子どもたちが複雑な思いを抱くのは、同級生などからもらう手紙や寄せ書きです。ネガティブな気持ちを持ちつつも、その思いを飲み込んでいるのは、みんなの「善意」が見えるからこそ。不登校新聞と協力して行ったアンケートから、やりきれない気持ちが見えてきました。2016年度、1千人あたりの不登校の子どもの人数は過去最多となり、小学校で4.7人、中学校では30.1人。あなたのクラスに不登校の子どもがいたら、どうしますか。(朝日新聞デジタル編集部・野口みな子)

無理やり玄関まで…追い詰められていた

「クラスメイトがよかれと思って書いてくれたことはわかっています。でも、そっとしておいてほしかったです」
東北地方に住む20代のワカナさん(仮名・女性)は、言葉を選ぶように、ぽつりぽつりと話します。
ワカナさんが、学校の教室に入ることが難しくなったきっかけは、中学校2年生のクラス替え。1年生の頃の友だちと離ればなれになり、クラスの中で孤独感を持っていました。
朝起きられなくなり、「学校に行きたくない」と言っても、母親に無理やり玄関まで引きずり出されたこともあったそうです。母親には「どうして普通のことができないの」と言われ、「何度も死にたいと思った。それくらい追い詰められていました」。

「クラスメイト」ではなく、「不登校の子」

ワカナさんが学校に行けなくなった頃、小学校が一緒だったという、クラスメイト6人からお手紙をもらいました。そこには「待ってるよ」「学校に来てね」など、登校をうながす言葉が書かれていたといいます。
「嬉しいという気持ちは全くなかったです。クラスメイトの1人としてではなく、『不登校の子』として見られているな、と感じました。不登校の生徒は、周りにいなかったので」
それまで言葉少なにゆっくり話していたワカナさんが、当時を思い出し、急ぐようにいいます。
「教室で1人でつらかったとき、誰も興味を示してくれず、何もしてくれませんでした。いきなり手紙だけもらって……」
「もしも学校に行っても、誰かが何かしてくれたのでしょうか」
かみしめるように、ワカナさんは続けます。「この状況になったら、どんなことをしてもらっても気を遣います。疎外感も感じるでしょう。してほしいことは、何もありませんでした」

手紙、半数以上が「もらったことがある」

不登校を経験した他の人たちは、クラスメイトなどからもらう「お手紙」をどう感じているのでしょうか。
不登校新聞(NPO法人全国不登校新聞社)の協力で行った、不登校の生徒、もしくは経験者を対象にしたウェブアンケートでは、20人から回答が得られました。そのうち、半数以上の人が「クラスメイトなどから手紙をもらったことがある」と答えました。
「手紙をもらったことがある」と答えた人のうち、手紙をもらったことについてどう感じたか聞いたところ、「良かった」と回答したのは約2割。「良くなかった」がおよそ3割で、肯定的に捉えている人数は少ないことがわかります。

【手紙をもらって「良くなかった」理由】
「学校のことを考えるだけでも嫌だった」(20代女性)
「『待ってるよ』という言葉がつらかった」(10代女性)など

半数近くが「わからない」という回答で、「優しい言葉ばかりで嬉しい半面、『どうして私は行けないのだろう』とつらくなった(10代女性)」などの理由も。「良かった」「良くなかった」では言い表せない、複雑な心境が垣間見えます。
一方、「手紙をもらったことがない」と答えた人で、「良くなかった」と答えたのはごく少数。「良かった」の理由には、「もらっていたら、ストレスになっていたと思う(30代男性)」という声もありました。

手紙「内容よりも、申し訳なさ」

特にアンケートの回答や、取材する中で多く聞かれたのは、「自分のために誰かの時間を割いてしまっているのが申し訳ない」という声でした。
東海地方に住むユウカさん(仮名・女性)もそのひとりです。
ユウカさんは中学3年生。小6から学校に行けなくなり、現在フリースクールに通っています。
3年生になって、担任の先生から、クラス全員分の寄せ書きを受け取りました。「はやく学校きてね」「待ってます」「体育祭きてください」ーー。寄せ書きを見つめながら、「全体的に似た言葉が並んでますよね」とユウカさんは話します。
「クラスの中には、会ったことのない子もいて、きっと何を書いたらいいか迷ったと思います。もしかしたら周りの子が書いたものをまねしたり、先生が言ったことを書いたりしたのかもしれません」
メッセージの内容については、「負担だとは感じていない」というユウカさん。自分に向けられた言葉よりも、「迷惑をかけてしまっているのでは」ということが気になっています。
「言葉を考えてくれた一生懸命さに、私は応えられないと思います。私のために時間をもらっていることが、本当に申し訳ないです」
ユウカさんに限らず不登校を経験している人は、「自分は周囲にどう思われているのか」を非常に敏感に考えていることを、取材の中で強く感じました。投げかけられる言葉から、相手の気持ちを探って疲れてしまったり、自分を責めてしまったりすることもあります。

「支えられているよ」手紙で救われた

それでも、ユウカさんには「涙が出るほど嬉しかった」というお手紙がありました。それは幼稚園の頃から仲の良い親友からもらった手紙です。
【私はちゃんとユウカちゃんを支えられている? 私はいつもユウカちゃんに支えられているよ 2人のきずなは誰になにを言われても、何があっても絶対に消えないからね】
学校に行けなくなった当時、ユウカさんは「自分でもどうして行けないのかわからなかった」そうです。周囲の人に『どうして学校に来ないの?』と何度も聞かれ、「理由が答えられないのもつらくて、聞かれても別の話にすり替えていました」。
「手紙をくれた彼女は、私が学校に行かなくなっても『元気?』って言うだけで、何も変わりませんでした。『私に何ができるのだろう』と思っていたことも、彼女はこのお手紙で救ってくれました」
「他のクラスメイトと関わりがないことを寂しいと思うこともあるけれど、私はこの子がいてくれるだけでいい」(ユウカさん)

「プラスになる根拠」なければ待ってほしい

アンケートにも、「手紙をもらって良かった」と回答した人がいました。しかし、理由を読むと単純に「嬉しい」という感情だけではない、ひっかかりがあるのを感じます。

【手紙をもらって「良かった」理由】
「励ましの言葉が嬉しかったと同時に、プレッシャーにも感じた」(20代男性)
「クラス全員からの手紙には心が傷つく言葉もあったが、あるクラスメイトが毎日手紙をくれて、だんだんありがたさを感じるようになった」(20代女性)など
手紙を送る人や、受け取る人にとっても、感じ方はさまざまです。不登校の生徒にみんなで手紙を送ることについて、どう考えたらよいでしょうか。
NPO法人日本スクールソーシャルワーク協会の山下英三郎名誉会長は、「本人にとってプラスになるという根拠がない限り、待っていただいた方がいいと思います」。
クラスメイトから忘れられていないということを、嬉しく感じる子どももいます。「ただ、学校に行かなければならない、とプレッシャーを感じる子どもの方が多いのではないでしょうか」と指摘します。
生徒の有志で手紙を送るケースもありますが、クラスメイトでまとめて手紙を書くということは、担任の先生の判断でされている場合が多いといいます。山下さんが考えるのは、「学校に来られない子どもをみんなで励まそう、という『善意』がベースにある」ということ。
「その善意を疑わず、相手が求めていることからずれてしまえば、悪意にも等しくなってしまうのです」

「手紙送ったのに」否定的な見方強める可能性も

クラスメイトや部活のメンバーなど、一律で手紙を書く場合、本人と直接トラブルがあった生徒も参加していることもあります。アンケートでは「いじめていた人の手紙は『誰かに書かされている』と感じた」「言葉では言いあらわせない気持ちになった」という声も寄せられ、手紙の一方通行さにやり場のない思いを抱えていることがわかります。
山下さんは、手紙を受け取った生徒が反応しなかった、もしくはできなかった場合、手紙を送った生徒が「いいことをしたのに、あの子は何もしなかった」と否定的な見方を強めてしまう可能性もある、と危惧します。
「こうした働きかけをする前に、子どもが学校のことを知りたいと思っているか、人からの接触を喜んでいるかどうか、少なくとも先生には考えてもらいたいです。そういった様子を知れるように、親御さんや、本人との関係づくりが重要だと考えています」(山下さん)

「お手紙」どう思いますか

文部科学省の調査によると2016年度、1年を通じて30日以上学校に行かなかった不登校の子どもは小学校で3万448人、中学校は10万3235人でした。1千人あたりの不登校の子どもの人数は過去最多となり、小学校で4.7人、中学校は30.1人という調査結果が出ています。
筆者自身、中1〜中学卒業まで不登校を経験していたこともあり、「お手紙」について不登校新聞と協力してアンケートを実施しました。
自分でも説明できないモヤモヤを抱えながら、届けられた言葉に持った感情を飲み込んでいるーー。誰かが誰かを傷つけようとしている状況ではないからこそ、「お手紙」をめぐるそんな現状にやりきれなさを感じています。
一方で、率直に驚いたのは、思ったより多くの人がもらっている、ということでした。もしかすると、この記事を読んでいる方の中にも「書いたことがある」「もらったことがある」という人がいるかもしれません。
もしも心当たりがある人は、ツイッターハッシュタグ「#不登校お手紙問題」で、当時の気持ちを聞かせてくれませんか。わかりやすい答えは出せない「お手紙」問題。これからも考え続けていきたいと思っています。

      ◇
【#withyou 〜きみとともに〜】
withnewsでは、生きづらさを抱える10代に「ひとりじゃないよ」と伝えたいと思い、4月から企画「#withyou」を始めました。8月は連日配信していきます。

報道陣も驚く安倍首相"原爆忌の印象操作" ギスギスした1日を塗り替える1葉 - PRESIDENT Online(2018年8月10日)

https://president.jp/articles/-/25902

安倍晋三首相が6日、首相官邸SNSアカウントで公開した写真と書き込みが物議をかもしている。広島で行われた「原爆の日」の平和記念式典に出席した際、被爆者代表と手を取り合う写真を掲載し、「『核兵器のない世界』の実現に努力する」などと書き込んだ。だが安倍首相はこの日、核兵器禁止条約に参加しない考えを通告して、参加を求める被爆者たちの失望と怒りを買っていた。手を取り合うシーンは、ごく一部にすぎない。これこそ安倍首相が野党批判で繰り返す「印象操作」ではないのか――。
昨年と異なり、今年は「原爆養護ホーム」を慰問
8月6日、広島は73回目の「原爆の日」を迎えた。広島市中区平和記念公園で開かれた平和記念式典には、安倍首相が参列し、献花・あいさつした。安倍首相はそのあと、被爆者代表らと意見交換し、記者会見に臨んでいる。ここまでは昨年の日程と同じだが、ことしは会見の後、原爆養護ホームで入園者を慰問した。
記者会見で安倍首相は核兵器禁止条約について「わが国の考え方とアプローチを異にしている。条約には参加しない立場に変わりはない」と明言した。従来の政府の姿勢をあらためて示したにすぎないが、唯一の被爆国の首相が、被爆者たちの要望を聞いた後に行った発言としては温もりに欠けている。
朝日新聞は翌7日朝刊で「核禁拒否 怒る広島」「『政府、誓いに背く態度』被爆者」と批判。毎日新聞は「見通せぬ世界の核軍縮」「『橋渡し役』日本、動きとれず」、東京新聞は「祈りと怒りの原爆忌」と報じている。
政権寄りの読売新聞、産経新聞には批判的な論調はなかったが、少なくとも被爆者たちの思いは、核禁止条約への参加にゼロ回答だった安倍首相に対し、失望し、不満を持ったことは間違いない。取材した記者たちも、安倍首相と被爆者の温度差を感じた。
SNSでは被爆者代表と寄り添う写真
ところが、である。
同日、首相官邸フェイスブック公式アカウントには「本年もまた8月6日を迎え、広島を訪れ、平和記念公園での式典に参列しました。原子爆弾の投下により犠牲となられた数多くの方々の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げるとともに、広島の悲劇を決して繰り返してはならないとの決意を新たにいたしました。『ネバーギブアップで頑張っていく』20歳の時、広島で被爆した坪井さんの言葉です。唯一の戦争被爆国として、我が国は、核兵器国と非核兵器国双方の橋渡しに粘り強く努めながら、『核兵器のない世界』の実現に向けて、一層の努力を積み重ねてまいります」という書き込みとともに広島県原爆被害者団体協議会の坪井直理事長と手を取り合う写真を掲載している。ツイッターにも同じ写真をアップした。
この書き込みと写真を見れば、安倍首相と被爆者の間には絶対的な信頼関係があるように見える。実際、坪井氏は発言の後半、安倍首相に対し「たいしたもんですよ。身体がよく続くなあと。ますますこれからもがんばっていきたい」とエールを送る一幕はあった。
ただし、広島被爆者団体連絡会議の吉岡幸雄事務局長のように「これまで、この席で安倍内閣集団的自衛権の容認、憲法改悪の主張の抗議し撤回を求めました。残念ながら、今年も政府の態度は『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』という平和記念公園の碑文の誓いにそむくものだ」と政府への不信を隠さない出席者もいた。
「よくもこのようなシーンを切り取ったものだ」
共産党小池晃書記長は「坪井直さんが『ネバーギブアップで頑張っていく』とおっしゃるのは、核兵器禁止条約に日本が署名、批准し核兵器の廃絶をその目で見届けるまでネバーギブアップで頑張るということ。被爆国の首相でありながらそれに反対する安倍首相への痛烈な一言。それを自らへのエールのように描く。あまりに卑劣」とツイート。坪井氏の発言を都合よく「つまみ食い」したと断じた。
安倍首相の広島入りを取材した現地の記者の間では「全体的には首相と被爆者たちのギスギスしたシーンが目立った1日だったのに」「ワンシーンをよくも切り取ったものだ」という驚き混じりのささやきも漏れたという。
安倍首相の「原爆の日」に対するこだわりのなさ
安倍首相は、国会などで、野党から「森友」「加計」問題などを追及されると「印象操作だ」「レッテル貼り」と言って反撃することが多い。しかし、被爆者の象徴的存在でもある坪井氏とのツーショットを政治的に利用したとすれば、こちらこそ「印象操作」「レッテル貼り」と言われても仕方ない。
安倍首相は広島、長崎の原爆忌など、過去の戦争の過ちに思いを巡らせる日へのこだわりは淡泊だ。8月9日、長崎の「原爆の日」に行われた式典に参加した際も、あいさつでは核兵器禁止条約について触れなかった。
2014年の8月6日のあいさつは、冒頭文が前年のあいさつとほぼ同じで「コピペだ」と批判されたことは記憶に新しい。これも、安倍首相の「原爆の日」に対するこだわりのなさが根底にある。
そういう姿勢について批判の声は当然、首相官邸にも届いている。9月の自民党総裁選を前に被爆者と寄り添う姿を見せ、リベラル層からも支持を得ようという思惑が6日のSNSでの書き込みにつながったとしても不思議ではない。
ただし、露骨な「印象操作」を続けると、安倍政権を支える保守層から失望される危険もある。岩盤とも言われる保守層は、リベラル層からの批判を受けてもぶれずに信じた道を進む安倍首相の姿を評価しているのだから。中途半端な施策は、むしろ双方の反発を招くだけだろう。

島根原発3号機の審査申請 中国電、規制委に - 日本経済新聞(2018年8月10日)

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34037580Q8A810C1EAF000/
http://archive.today/2018.08.10-014541/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34037580Q8A810C1EAF000/

中国電力は10日、島根原子力発電所3号機(松江市)の新規稼働に向けた安全審査を原子力規制委員会に申請した。建設中の原発の申請はJパワー大間原発青森県大間町)に続き2例目。建物や設備はほぼ完成している。審査の進捗によっては、東日本大震災後に新規稼働する初の原発となる可能性がある。
10日午前に北野立夫常務執行役員が規制庁を訪れ、申請書を手渡した。申請後、北野氏は現在審査中の島根2号機に触れつつ「まずは2号機を優先して審査してもらいたい」とした上で「2号機に集中することが3号機の早期稼働につながるとみている。老朽発電所の代替電源として一刻も早く3号機を稼働させたい」と話した。
島根原発は国内原発で唯一県庁所在地にある。東京電力福島第1原発と同じ沸騰水型軽水炉(BWR)だ。2号機は今年2月に耐震設計の目安となる基準地震動が決まった。中国電は2号機に隣接する3号機も同じ基準地震動になるとみている。昨年審査に合格した同型の東電柏崎刈羽原発新潟県)などを参考にした安全対策工事も2019年度上期中に終える。
国電は発電設備の老朽化が進む。20年代半ばには運転開始40年を超える火力発電所が500万キロワットに達する。石炭、原油など燃料価格の上昇で18年4〜6月期決算は5年ぶりの最終赤字だった。自由化以降、関西電力や新電力との競争も激しい。収益や温暖化ガスの削減を考慮し、早期の原発稼働を目指す。

スクールソーシャルワーカー 子どもと家庭の困難支える 傍に寄り添うだけでも - 共同通信(2018年8月8日)

https://www.47news.jp/national/child-future/2645425.html
http://archive.today/2018.08.10-003915/https://www.47news.jp/national/child-future/2645425.html

スクールソーシャルワーカー(SSW)という耳慣れない職名の人が学校や地域で働いている。不登校やいじめ問題への対応のため、文部科学省も配置を応援している。社会福祉士の 長汐道枝 (ながしお・みちえ) さんは2008年から東京都府中市のSSWを務める。仕事から見える子どもや家庭の姿、学校現場の課題を聞いた。

福祉と教育の間で
SSWの仕事とは?

「市教委からは最初『福祉と教育の接点で活動してほしい』と言われました。具体的には『学校が困っていることがたくさんある。それを改善するように福祉的な視点で働きかけてほしい』と」

長汐さんによれば、社会福祉士は子どもの最善の利益のために活動するから「学校のために」という要請とは矛盾することもある。「二つの価値の間を泳ぎ回るようにして活動してきました」
スクールカウンセラーと違って「相談待ち」ではない。外に出る。
まず問題がありそうな子と直接会い、状況をつかむ。福祉サービス申請が必要なら窓口に同行する。「背景にひとり親家庭の貧困があるケースが多い。生活保護を受けられるのにやり方が分からない。窓口の対応に傷つき、諦めてしまう。そんなとき私たちがそばにいるだけでも違います」
子どもに発達上の問題があるケースや母親・家族が精神的に病んでいるときは医療への橋渡しも。
「でも最大の仕事は社会資源の開発です。子どもにとって必要なこと、あったらいいなということをつくっていく」
不登校の場合、学びを保障する手段としてフリースクールもあるが、学費は安くなく、ゆとりのない家庭は選択できない。「だから無料で教えるところをつくりました」
市内のカトリック教会に事情を話し、土曜の教室を実現させた。先生は信者の中の教職者。これとは別に、息子の非行で苦しんだ経験のある女性も週2回、教えてくれる。

困難な子こそ「希望の学校」への道

こんなケースも。夫のドメスティックバイオレンス(DV)で離婚後、資格を取って就職した女性が退職せざるを得なくなった。自信を失って自殺未遂。小学生の男の子が通報して一命を取り留めた。
学校給食のない週末、その子を含め、満足な食事が取れなくなる恐れがある子たちへ、生協の食材を配る。
そんな長汐さんに今の学校はどう見えるのか。
「学校は子どもにこうなってほしいと考える。福祉は逆。子どもはありのままでいいんだよというのが出発点です。そこから『あなたは何をどうしたいの』って聞いて手伝う」。そうして初めて、学校に来られない子たちの多様な困難が見えてくる。
「学校は子どものつらさ、抱えている問題に寄り添ってほしい。そして、学校との関係で苦しい状況にある子たちの価値や良さを認める学校に変わってほしい。そんな子たちこそ、希望の学校をつくるエネルギーになると思います」

最後に望んだことをやってあげた 最重度の子の学校

長汐さんは教員として特別支援教育の道を歩み続け、定年後、スクールソーシャルワーカーに転じた。30〜40代には東京都小平市国立精神・神経医療研究センター病院 に入院する子の院内学級で教えた。「全国的にも最重度。ほとんどの子が呼吸器を付けていた」
筋萎縮症の小6男子を修学旅行に連れて行ったことがある。唾液がのどに詰まって窒息する恐れがあり、絶えず吸引しなくてはならない。そんな最重度の子をどこへ?
日本武道館です。希望を聞いたら、サンプラザ中野くんのコンサートに行きたいと言うので」
親と医師、看護師2人、教員2人が同行した。だがコンサートを最後まで聞くことはできなかった。近くに取ったホテルの部屋に引き揚げ、スタッフが夜通しケアをした。
3カ月後に亡くなったとき、母親が泣きながら話した。「この子が最後に望んだことをやってあげられた。私は満足です」
重い病気の子にとっての教育とはなんだろう。
「人権だと思います。目も見えず、耳も聞こえない。感じるのは痛みだけ。そんな状態の子が、面会に来たお母さんに『あやちゃん、来たよ〜』って言われると反応する。顔が輝くんです。その子に何が伝わるか考え、弦楽器や太鼓といった波動が伝わる物を教材にしました」。長汐さんもギターを習ったという。
「ひとりひとりの子に合ったオリジナルのメニューを目指さなければならない。そう学びました」

「一口メモ」貧困

ある小学校の保護者参観日。長汐さんがひとり親家庭の男の子に話しかける。「お母さん、今日は来るかな」。「こんなとこに来るわけないよ」と男の子。「来ないの?」「お母さん、えらいんだ。朝はスーパーで仕事しておむすびを持って帰って来る。家でちょっと寝て仕事に行って、夕方からはお総菜屋さん、夜はまた別の仕事だよ」
子どもはそんな母を尊敬している。だが、貧困こそが働きづめの毎日を強い、子どもの食事の用意も十分にできない状況に陥らせているのだ。

「記者ノート」今しかないこのときを

院内学級で最重度の子どもたちに教えた話をうかがって、私は「コストはかかりますよね」と酷薄な感想を差し挟んだ。長汐さんは「そうです。だから研修で来た若いドクターなどにはよく言われました。『こんなにぞろぞろ先生がいるけれど、いま普通の学校が大変なんだから、そっちに行く方が将来的に有益でしょう。もったいない』って」
長汐さんはどう返したのか。「そういうことを目的にしているんじゃありません。この子にとっての一生は今しかない。だから私たちが精いっぱいでできることを、この子たちのためにすること。これは人権です」(共同通信編集委員・佐々木央)=2015年11月配信

長崎原爆の日 国連総長初参列「核の惨禍最後の場所に」 - 東京新聞(2018年8月9日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080902000260.html
http://web.archive.org/web/20180809074711/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080902000260.html


長崎は九日、被爆から七十三年を迎え、長崎市松山町の平和公園で平成最後の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれた。原爆投下時刻の午前十一時二分、参列した市民ら約五千二百人が黙とう。田上(たうえ)富久市長は平和宣言で、核兵器保有国とその同盟・友好国に「核に頼らぬ安全保障政策に転換を」と促した。日本政府にも、唯一の戦争被爆国として核兵器禁止条約に賛同し、世界を導く道義的責任を果たすよう求めた。 
安倍晋三首相はあいさつで、六日の広島原爆の日と同様、保有国と非保有国の橋渡しが必要だと強調した。国連からは事務総長が初めて参列。現職のグテレス氏はあいさつで「核廃絶は国連の最優先課題。長崎から全ての国に、目に見える進展を求める。保有国には特別な責任がある。長崎を核の惨禍で苦しんだ地球上最後の場所にしよう」と呼び掛け、核兵器廃絶に取り組む姿勢を強調した。
平和宣言は条約早期発効のため、世界中の人々へ「自国の政府と国会に署名と批准を求めて」と呼び掛けた。六月の米朝首脳会談にも触れ「後戻りのない非核化実現を、大きな期待を持って見守っている」とした。
反核運動の象徴的な存在で昨年八月に八十八歳で死去した谷口稜曄(すみてる)さんらが、戦後世代の戦争や核に対する向き合い方に懸念を示していたことを紹介。憲法の平和主義を次世代に引き継ぐことの大切さを強調した。原発事故からの復興に努める福島にも八年続けて言及し、励ましの言葉を送った。
長崎市によると、式典には、核保有国を含めて計七十一カ国の代表者らが出席した。
七月末までの一年間で、市は被爆者三千四百四十三人の死亡を確認。今年から、国が定めた地域外で原爆に遭った「被爆体験者」も死没者名簿の対象とし、記載総数は体験者五十四人を含む計十七万九千二百二十六人となった。
厚生労働省によると、被爆者健康手帳を持つ人の数は、三月末時点で十五万四千八百五十九人。平均年齢は八二・〇六歳。

◆首相に条約署名迫る 県外在住者初の被爆者代表・田中熙巳さん訴え
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(86)=埼玉県新座市=は県外在住者で初めて被爆者代表として「平和への誓い」を朗読した。 
七十三年前、長崎の爆心地から三・二キロ離れた自宅で被爆した田中さんは当時十三歳。「三日後の今ごろ、家屋が跡形もなく消滅し、黒焦げの死体が散乱するこの丘の上を歩き回っていた。この日一日、私が目撃した浦上地帯の地獄の惨状を脳裏から消し去ることはできません」と当時の凄惨(せいさん)な様子を振り返った。
原爆について「全く無差別に、短時日に、大量の人びとの命を奪い、傷つけた。そして、生き延びた被爆者を死ぬまで苦しめ続けます。人間が人間に加える行為として絶対に許されない行為です」と非難。「被爆者の苦しみと核兵器の非人道性を最もよく知っているはずの日本政府は、同盟国アメリカの意に従って、核兵器禁止条約に署名も批准もしないと、昨年の原爆の日に総理自ら公言されました。極めて残念でなりません」と厳しく批判した。
最後に「核兵器もない、戦争もない世界の実現に力を尽くす」と誓った。 (原田遼)

長崎原爆の日 核根絶を犠牲者に誓う 田中さん、故郷離れ活動50年 - 東京新聞(2018年8月9日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080902000256.html
http://web.archive.org/web/20180809074513/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080902000256.html

長崎市で九日営まれた「原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」。県外在住者で初めて「平和への誓い」を行った埼玉県新座市の田中熙巳(てるみ)さん(86)は、被爆者の苦難の歴史と原爆の非人道性を訴え、核兵器禁止条約に署名しない政府を「極めて残念でならない」と強く批判し、安倍晋三首相の顔をにらみつけた。故郷を離れ、国内外で五十年にわたり核兵器根絶に心血を注いできたからこそ、条約の重みを人一倍感じる。 (原田遼)
十三歳の夏、爆心地近くに住んでいた伯母ら親族五人が黒焦げで見つかった。「この日一日、目撃した地獄の惨状を私の脳裏から消し去ることはできません」。田中さんは鮮明に残る記憶を誓いの言葉に乗せた。
七十三年前、自宅で閃光(せんこう)を見た直後、爆風とともに気を失った。爆心地から三・二キロ。幸い無傷で済んだが三日後、伯母が住んでいた爆心地付近に入ると、おぞましい光景に息をのんだ。無数の遺体が路上を転がり、川を漂う。人の焦げたにおいと腐臭でまともに息が吸えなかった。
「自分は幸運にも元気で、その後病気にもかからなかった。ならば苦しんでいる人の助けになろう」。若き日の決断は、十九歳で故郷を離れてから一層強くなった。東京理科大を経て、東北大の研究職になると、仙台市日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の活動に携わるようになった。
「全国に移り住んだ被爆者は被爆後十年余り、誰からも顧みられることなく、原爆による病や死の恐怖、偏見、差別などに一人で耐え苦しんだ」。この日の誓いでも、全国の被爆者の苦しみを代弁した。
二〇〇〇年から被団協事務局長に就き、核拡散防止条約(NPT)再検討会議など海外で被爆体験を語り続けた。現職の代表委員に就任した翌月、国連で核兵器禁止条約が採択。昨年十二月にはノルウェーを訪れ、条約を主導した非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」のノーベル平和賞授与式も見届けた。「道筋が見えてきた。これほどうれしいことはない」。被爆者たちの無念が少しでも報われる気がした。
だが安倍晋三首相は条約に署名する気をまったく見せない。約五十年、核兵器廃絶に取り組んできた自分だからこそ伝えられることがあるのではないかと考え、本来は「長崎市民がやるべきだ」と考えていた「平和への誓い」の公募に今回名乗りを上げた。
県外、国外の活動を通じ、多くの人と分かり合えた。そこに希望を抱き、声を上げ続ける。政府への願いもいつか届くと信じ、誓いを「ヒバクシャ国際署名運動をさらに発展させ、速やかに核兵器禁止条約を発効させ、核兵器もない、戦争もない世界の実現に力を尽くす」と締めくくった。

核禁条約 首相は背を向けるな - 朝日新聞(2018年8月10日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13629883.html
http://archive.today/2018.08.10-005704/https://www.asahi.com/articles/DA3S13629883.html

日本政府を代表する首相と、あの惨禍を知る被爆者らとの、痛ましいほどのすれ違い。この夏もまた、不幸な光景が繰り返された。
広島と長崎への原爆投下から73年。平和を誓う両式典で、被爆者や市長らは口々に核兵器禁止条約への期待を示し、政府に真剣なとりくみを求めた。
だが首相は式典でのあいさつで、条約に触れもしなかった。被爆者との懇談では、廃絶の目標は同じとしながら「アプローチが異なる」と述べ、条約への参加を否定した。
国連で122カ国が賛成して昨年採択された核禁条約は、被爆者らの長年の訴えが結実したものだ。核の非人道性を強調する趣旨は、日本外交が柱に据えた「人間の安全保障」にも通じる普遍的な価値をもつ。
ところが首相は昨年に続き、条約の意義を認めることもなかった。式典でも懇談でも、政府方針の読み上げが目立った姿に、被爆者団体の代表が失望を感じたのは当然だろう。
首相は核軍縮の現状について「各国の考え方の違いが顕在化している」と語った。確かにそのとおりであり、核保有国と非保有国との間に深い不信感が広がっている。
その責任はどこにあるか。グテーレス国連事務総長がきのうの長崎でのあいさつで明言したように、核の近代化に巨額をつぎこんでいる核保有国の側にこそ「特別な責任」がある。
首相は核保有国と非保有国との「橋渡し」役を自任しているが、それならばまず保有国に向かって核軍縮を促す行動をみせなければ説得力はない。
しかし逆に、トランプ米政権が打ち出した核軍拡の新戦略を「高く評価」(河野外相)している。大国のエゴともいうべき軍事政策を追認するだけの姿勢では、被爆国の責務を果たせるはずがない。
日本の安全保障政策は、米国による「核の傘」を前提にしているという現実はある。だがそれを理由に核禁条約を拒絶し続けるのは、国際世論に背を向けることに等しい。
被爆者たちと同様に、世界の多くの市民も危機感を深めている。自国第一主義の広がりとともに、新たな核開発に走る国も増えかねない。
核の拡散を防ぐ国際枠組みを守るためにも、日本政府は国際世論との結束を強める多角的な外交を進めるべきだ。
核廃絶へ向けた国際社会の努力を日本は「主導」する。首相はその誓いを言葉だけでなく、行動で示してもらいたい。

翁長知事死去 在京5紙で1面トップ - 沖縄タイムズ(2018年8月10日)

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/296665
https://megalodon.jp/2018-0810-0958-35/www.okinawatimes.co.jp/articles/-/296665


【東京】辺野古新基地建設を巡って政府と対峙(たいじ)した翁長雄志知事の死去は、在京の全国紙・ブロック紙の9日朝刊でも大きく伝えられた。5紙が1面トップで、がん治療を続けながら公務に当たっていたことや辺野古の埋め立て承認手続き撤回を表明していたことなどを伝えた。日経新聞は1面の広告の上に2段の扱いだった。
また総合面では、各社11月に予定されていた県知事選が9月に前倒しされるとし、翁長氏の後継者探しが急務になったことや、佐喜真淳宜野湾市長擁立を決めている自民党側の選挙戦への危惧などを伝えた。
毎日新聞は社会面で「沖縄の不条理訴え続け 希代の闘う政治家」との見出しの評伝で、翁長氏が知事公舎に植えられたガジュマルの前に置いた琉歌の石板を見て困難な闘いを続ける自らを奮い立たせたエピソードを紹介。朝日新聞は「本土へ失望突きつけた」との見出しで、沖縄に基地が集中するのは本土の無関心があると問題提起し「県民の複雑な思いを代弁する希有な能力を持っていたことが党派を超えて支持を集める原動力だった」と振り返った。

(政界地獄耳)立場の違う人たちからの敬意 - 日刊スポーツ(2018年8月10日)

https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/201808100000235.html
http://archive.today/2018.08.10-013527/https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/201808100000235.html

★政治家とは命を擦り減らす仕事だと改めて感じさせられた。沖縄県知事翁長雄志が志半ばで亡くなった。がん闘病中の67歳。早すぎる死だった。権力と戦うと一口で言うが、時の政権中枢や米国の安全保障戦略を向こうに回して県民を守ろうとするのだから大変なことだ。知事は元来自民党沖縄県連幹事長を務めた人物。共産党委員長・志位和夫が「不屈の信念と烈々たる気概で辺野古新基地反対を貫いた4年間のたたかいに、深い敬意と感謝をささげます。保守・革新の垣根を越えた共闘にこそ沖縄の未来がある。ご遺志を継ぎたたかう決意です」とツイッターに記したように、保守・革新の垣根を越えたところに政治があるのではないか。
★5月23日、引退を表明している沖縄出身の歌手・安室奈美恵に県民栄誉賞が授与されたが、闘病中だった知事は授与に出席し安室に表彰状を手渡した。安室は訃報に接し、ホームページで「翁長知事の突然の訃報に大変驚いております。ご病気の事はニュースで拝見しており、県民栄誉賞の授賞式でお会いした際には、お痩せになられた印象がありました。今思えばあの時も、体調が優れなかったにも関わらず、私を気遣ってくださり、優しい言葉をかけてくださいました。沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております」と哀悼の意を表した。
★8日、米国務省の報道担当官もお悔やみの言葉とともに「日米関係に対する翁長知事の貢献に感謝しているし、沖縄県民にとって重要な問題をめぐる翁長氏との長年の協力をとても大切だと考えてきた。この困難な時期にあって、われわれの思いと祈りは翁長氏の家族や沖縄県民と共にある」と語ったという。元県知事・大田昌秀、元沖縄開発庁長官・上原康助、元官房長官野中広務、沖縄本土復帰に尽力した福地広昭と相次いで他界しているが、いずれも広い視野に立った政治家だった。立場の違う人たちに敬意を示される政治家へ敬意を表したい。合掌。(K)※敬称略

翁長知事死去 「沖縄とは」問い続けて - 朝日新聞(2018年8月10日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13629884.html
http://archive.today/2018.08.10-010025/https://www.asahi.com/articles/DA3S13629884.html

沖縄県知事翁長雄志(おながたけし)氏が亡くなった。67歳だった。
米軍普天間飛行場辺野古に移設することへの反対を貫き、海面の埋め立て承認を撤回する手続きを始めた矢先だった。
本土にとって沖縄はいかなる存在なのか。国の安全保障はどうあるべきか。日本国憲法が定める地方自治とは何か――。
知事に就任して3年8カ月。重い問いを突きつけ続けた。
その姿勢を象徴するのが「イデオロギーではなくアイデンティティー」という言葉であり、長く続いた保守・革新の対立を乗りこえて作りあげた「オール沖縄」のつながりだった。
自民党の県連幹事長を務めるなど保守政界の本流を歩み、日米安保体制の必要性も認めながら、辺野古問題では一歩も譲ることはなかった。最後となった先月27日の記者会見でも、がんでやせ細った体から声を絞り出し、「振興策をもらって基地を預かったらいい、というようなことは、沖縄の政治家として容認できない」と語った。
「銃剣とブルドーザー」で土地を取りあげられ、当然の権利も自由も奪われた米軍統治下で生まれ、育った。本土復帰した後も基地は存続し、いまも国土面積の0・6%の島に米軍専用施設の70%以上が集中する。
だが、「なぜ沖縄だけがこれほどの重荷を押しつけられねばならないのか」という翁長氏の叫びに、安倍政権は冷淡だった。知事就任直後、面会の希望を官房長官は4カ月にわたって退け、国と地方との争いを処理するために置かれている第三者委員会から、辺野古問題について「真摯(しんし)な協議」を求められても、ついに応じなかった。
翁長氏が「政治の堕落」と評した不誠実な政権と、その政権を容認する本土側の無関心・無責任が、翁長氏の失望を深め、対決姿勢をいよいよ強めていったのは間違いない。
沖縄を愛し、演説でしばしばシマクトゥバ(島言葉)を使った翁長氏だが、その視野は東アジア全体に及んでいた。
今年6月の沖縄慰霊の日の平和宣言では、周辺の国々と共存共栄の関係を築いてきた琉球の歴史に触れ、沖縄には「日本とアジアの架け橋としての役割を担うことが期待されています」と述べた。基地の島ではなく、「平和の緩衝地帯」として沖縄を発展させたい。そんな思いが伝わってくる内容だった。
死去に伴う知事選は9月に行われる。その結果がどうあれ、翁長氏が訴えてきたことは、この国に生きる一人ひとりに、重い課題としてのしかかる。

翁長知事死去 沖縄の訴えに思いを - 東京新聞(2018年8月10日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081002000150.html
https://megalodon.jp/2018-0810-1001-55/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018081002000150.html

沖縄の保守政治家として、なぜ保革の垣根を越えた「オール沖縄」を率いて安倍政権と真っ向対決してきたのか。翁長雄志知事が亡くなった。その訴え、沖縄の現状をよく思い起こそう。
翁長氏の政治信条は「オール沖縄」「イデオロギーよりアイデンティティー」の言葉に象徴されていた。
国土の0・6%の広さしかない沖縄県に、国内の米軍専用施設の70%が集中する。にもかかわらず政府は、米軍普天間飛行場宜野湾市)の代替施設として、同じ県内の名護市辺野古に新基地建設を強行している。日本国憲法よりも日米地位協定が優先され、県民の人権が軽視される。
そうした差別的構造の打破には保守も革新もなく、民意を結集して当たるしかない、オール沖縄とはそんな思いだったのだろう。
言い換えれば、沖縄のことは沖縄が決めるという「自己決定権」の行使だ。翁長氏は二〇一五年に国連人権理事会で演説し、辺野古の現状について「沖縄の人々の自己決定権がないがしろにされている」と、世界に向け訴えた。
父、兄が市長、副知事などを務めた政治家一家に生まれ、那覇市議、県議、自民党県連幹事長などを歴任した。県議時代には辺野古移設を容認していたが、那覇市長当時の〇七年、沖縄戦の集団自決に日本軍の強制を示す記述が削除された教科書検定問題を巡る県民大会に参加。さらに、民主党政権の県外移設方針が迷走したことなどを機に移設反対にかじを切る。
戦争につながる基地問題に敏感なのは、沖縄戦後、激戦地に散乱したままだった戦死者の遺骨集めに奔走した実父の影響も強いとされる。「保守は保守でも自分は沖縄の保守。本土の保守政権に対して言うべきことは言う」が口癖でもあったという。
翁長県政の四年弱、安倍政権はどう沖縄と向き合ったか。県内を選挙区とする国政選挙のほとんどで移設反対派が勝利したが、その民意に耳を傾けようとせず、辺野古の基地建設を進めた。菅義偉官房長官は九日の記者会見でも、辺野古移設を「唯一の解決策」と繰り返すのみだ。
内閣府が三月に発表した自衛隊・防衛問題に関する世論調査で、「日米安保が日本の平和と安全に役立っている」との回答が約78%を占めた。安保を支持するのなら、その負担は全国で分かち合うべきではないか。翁長氏の訴えをあらためて胸に刻みたい。 

翁長・沖縄知事が死去 基地の矛盾に挑んだ保守 - 毎日新聞(2018年8月10日)

 
https://mainichi.jp/articles/20180810/ddm/005/070/024000c
http://archive.today/2018.08.10-010344/https://mainichi.jp/articles/20180810/ddm/005/070/024000c

保守系ながら「オール沖縄」を掲げ「辺野古新基地」に反対してきた翁長雄志(おながたけし)沖縄県知事が死去した。
本土復帰前から保守と革新の対立が続く沖縄政界にあって、翁長氏は長く県議や那覇市長・市議を務め、自民党沖縄県連幹事長に就いたこともある保守の重鎮だ。
保守は地域の伝統や文化を重視し、急進的な変革は避けようとする。沖縄の保守は米軍基地が存在する現実を受け入れ、経済振興を図ることによって、革新側の「反基地」「反安保」と一線を画してきた。
ところが、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設をめぐる政府の迷走が保守をいら立たせた。
旧民主党の鳩山政権は「県外移設」を公約しながら、後に断念した。
安倍政権は「辺野古が唯一の選択肢」と頭ごなしに押しつける強硬姿勢をとり続けている。
安倍晋三首相のキャッチフレーズには「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」などがあるが、沖縄にとっての戦後レジームは米軍占領下から続く過重な基地負担だ。
首相の言う日本の中に沖縄は入っているのか。本土の政府・自民党に対するそんな不信感が翁長氏を辺野古移設反対へ転じさせた。
イデオロギーで対立する保守と革新をオール沖縄へ導いたのは「沖縄のアイデンティティー」だ。翁長氏はそう強調してきた。
県の「沖縄21世紀ビジョン」にあるように、沖縄はアジア太平洋地域の国際的な交流拠点を目指すことで経済的な自立を図っている。
沖縄は基地依存経済といわれる状況から抜け出そうとしているのに、それを後押しすべき国が辺野古移設と沖縄振興策をセットで押しつけてくる。これを受け入れることはアイデンティティーの確立と矛盾する。
知事就任後に菅義偉官房長官と会談した際、翁長氏は政権側の姿勢を「政治の堕落」と非難した。
ただし、県側がとれる対抗手段は限られていた。辺野古埋め立て承認の「撤回」手続きを進める中での翁長氏の急死は、移設反対派に衝撃を与えている。9月にも行われる知事選の構図は流動的だ。
戦後の米占領下で生まれ育った保守政治家が病魔と闘いながら挑んだ沖縄の矛盾は残ったままだ。

<金口木舌>記者の仕事の一つに政治家の発言などを書き起こす作業がある。 - 琉球新報(2018年8月10日)


https://ryukyushimpo.jp/column/entry-779300.html
http://archive.today/2018.08.10-010638/https://ryukyushimpo.jp/column/entry-779300.html

記者の仕事の一つに政治家の発言などを書き起こす作業がある。その場でパソコンに打ち込むこともあれば、音源を聞き直して正確に文字化する場合もある

▼使用頻度の高い単語をあらかじめ登録しておけば、全て打ち込まなくても頭文字を入力するだけで特定の言葉が出てくる。政治部記者時代、「H」と「I」で始まる言葉を登録していた
▼「はいさい、ぐすーよー、ちゅーうがなびら」「イデオロギーよりアイデンティティー」。翁長雄志知事は至る所でこの二つを多用していた。共通の言語と歴史を共有するウチナーンチュの心を捉える言葉だった
▼沖縄は特有の文化や価値観などの共有性が高い「ハイコンテクスト文化」。論理的に伝えようとしなくても何となく通じてしまう。それに慣れてしまい、議論を避けて「なーしむさ」で終わってしまうこともある
▼政治家にとって言葉は命であり、武器でもある。日米安保を支持する保守政治家でありながら、沖縄がなぜ辺野古新基地を拒否するのか翁長知事は説明し続けた。沖縄を切り捨てて主権を回復し、広大な米軍基地を押し付けてきた本土の「無意識の差別」を気付かせようとした
社会学者マックス・ウェーバ

ーは「その国の政府は、その国に生きる人の鏡である」と指摘した。翁長知事は沖縄に生きる人の鏡だった。「しむさ」と諦めるのはまだ早い。

辺野古撤回で聴聞 移設の前提は崩れている - 琉球新報(2018年8月10日)

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-779294.html
http://archive.today/2018.08.10-010548/https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-779294.html

名護市辺野古の新基地建設を巡り、県が辺野古の海の埋め立て承認の撤回に向け、工事主体である沖縄防衛局の意見や反論を聞き取る「聴聞」が非公開で行われた。防衛局側は再び反論の機会を設けるよう求めたが、県は聴聞をこの日で終えた。
埋め立て承認撤回は故翁長雄志知事が「自分でしっかりやりたい」と話していた。自治体の長の最後の「行政指導」を国は受け入れるべきだ。工事を即刻中止し、辺野古新基地建設を断念するよう求める。
県が撤回に向け示した判断の根拠は、軟弱地盤の問題や環境対策の不備など、いずれも具体的だ。
特に普天間飛行場の返還に8条件が付けられている問題は、普天間移設問題の前提を覆す。2017年に稲田朋美防衛相(当時)が、辺野古新基地が完成したとしても八つの返還条件を満たさなければ米軍普天間飛行場は返還されないと参院外交防衛委員会で明言した。
国はこれまで、住宅地に囲まれた「世界で一番危険な」普天間飛行場を、危険除去のために名護市辺野古に移設させるとしてきた。しかし、普天間「代替」として辺野古の海を埋め立てて新基地を造っても、那覇空港など滑走路の長い民間空港を米軍に使用させなければ普天間は返ってこない。この事実を防衛相が認めたのだ。こんな欺瞞(ぎまん)はない。この1点をとっても撤回の理由となり得る。
基地建設予定海域に軟弱地盤や活断層の疑いがあることも、今年、新たに分かった。防衛局が実施した土質調査により、護岸建設箇所の地盤がマヨネーズ並みともいわれる緩い地盤だった。防衛局は市民団体の情報公開請求まで調査報告書を出さず、県の質問にも「液状化の可能性は低い」「圧密沈下は生じない」と回答した。
県は当初の設計通りに護岸工事がされた場合は液状化や沈下などが起こると指摘する。たとえ地盤改良工事を行うとしても費用も工期も予想をはるかに超える可能性がある。
工事海域に生息するジュゴンやサンゴに代表される環境への影響は以前から指摘されているが、防衛局は県の指導を無視している。
防衛局は埋め立てを承認した際に提出した環境保全図書などの記載と異なる工事を進めている。変更するなら県の承認を得なければならず、留意事項違反だ。
翁長知事は、こうした国の姿勢を「傍若無人だ」と厳しく批判した。
県は聴聞を終え、残るは撤回の決定である。自身で撤回すると明言していた翁長知事が死去し、撤回の時期も焦点となる。
防衛局は県が示した撤回判断の根拠に反論があるなら一つ一つ科学的に反証すべきだ。それをせず、工事を進めようとするのは「傍若無人」と言われても仕方がない。