長崎原爆の日 核根絶を犠牲者に誓う 田中さん、故郷離れ活動50年 - 東京新聞(2018年8月9日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080902000256.html
http://web.archive.org/web/20180809074513/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201808/CK2018080902000256.html

長崎市で九日営まれた「原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」。県外在住者で初めて「平和への誓い」を行った埼玉県新座市の田中熙巳(てるみ)さん(86)は、被爆者の苦難の歴史と原爆の非人道性を訴え、核兵器禁止条約に署名しない政府を「極めて残念でならない」と強く批判し、安倍晋三首相の顔をにらみつけた。故郷を離れ、国内外で五十年にわたり核兵器根絶に心血を注いできたからこそ、条約の重みを人一倍感じる。 (原田遼)
十三歳の夏、爆心地近くに住んでいた伯母ら親族五人が黒焦げで見つかった。「この日一日、目撃した地獄の惨状を私の脳裏から消し去ることはできません」。田中さんは鮮明に残る記憶を誓いの言葉に乗せた。
七十三年前、自宅で閃光(せんこう)を見た直後、爆風とともに気を失った。爆心地から三・二キロ。幸い無傷で済んだが三日後、伯母が住んでいた爆心地付近に入ると、おぞましい光景に息をのんだ。無数の遺体が路上を転がり、川を漂う。人の焦げたにおいと腐臭でまともに息が吸えなかった。
「自分は幸運にも元気で、その後病気にもかからなかった。ならば苦しんでいる人の助けになろう」。若き日の決断は、十九歳で故郷を離れてから一層強くなった。東京理科大を経て、東北大の研究職になると、仙台市日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の活動に携わるようになった。
「全国に移り住んだ被爆者は被爆後十年余り、誰からも顧みられることなく、原爆による病や死の恐怖、偏見、差別などに一人で耐え苦しんだ」。この日の誓いでも、全国の被爆者の苦しみを代弁した。
二〇〇〇年から被団協事務局長に就き、核拡散防止条約(NPT)再検討会議など海外で被爆体験を語り続けた。現職の代表委員に就任した翌月、国連で核兵器禁止条約が採択。昨年十二月にはノルウェーを訪れ、条約を主導した非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」のノーベル平和賞授与式も見届けた。「道筋が見えてきた。これほどうれしいことはない」。被爆者たちの無念が少しでも報われる気がした。
だが安倍晋三首相は条約に署名する気をまったく見せない。約五十年、核兵器廃絶に取り組んできた自分だからこそ伝えられることがあるのではないかと考え、本来は「長崎市民がやるべきだ」と考えていた「平和への誓い」の公募に今回名乗りを上げた。
県外、国外の活動を通じ、多くの人と分かり合えた。そこに希望を抱き、声を上げ続ける。政府への願いもいつか届くと信じ、誓いを「ヒバクシャ国際署名運動をさらに発展させ、速やかに核兵器禁止条約を発効させ、核兵器もない、戦争もない世界の実現に力を尽くす」と締めくくった。