干されてもメゲずに訴える 石田純一“覚悟”のスピーチ再録 - 日刊ゲンダイ(2015年12月8日)

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/171267/1

今年、安倍政権を確実に追い詰めたSEALDsが6日、今年最後の抗議行動を日比谷野音で展開した。その際、注目を集めたのがトレンド俳優、石田純一のスピーチだ。石田は過去にもSEALDsのデモに登場、そのため仕事を干されたというが、全然めげちゃいなかった! やんやの拍手を浴びた石田スピーチの再録――。

SEALDs集会のスペシャルゲストは、石田純一さんだった!Keep Calm and No War 1206 銀座大行進 2015.12.06

<特定秘密保護法>会計検査院「憲法上、問題」指摘 - 毎日新聞(2015年12月8日)

http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20151208k0000m040176000c.html
http://megalodon.jp/2015-1208-0913-17/news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20151208k0000m040176000c.html


◇「すべてを検査とする憲法の規定上、問題」
特定秘密保護法案の閣議決定を控えた2013年9月、法が成立すれば秘密指定書類が会計検査に提出されない恐れがあるとして、会計検査院が「すべてを検査するとしている憲法の規定上、問題」と内閣官房に指摘していたことが分かった。検査院は条文修正を求めたが、受け入れられないまま特定秘密保護法は成立。内閣官房は修正しない代わりに、施行後も従来通り会計検査に応じるよう各省庁に通達すると約束したが、法成立後2年たっても通達を出していない。【青島顕】
毎日新聞が情報公開請求で内閣官房や検査院から入手した法案検討過程の文書で判明した。10日で施行1年を迎える特定秘密保護法の10条1項は、秘密を指定した行政機関が「我が国の安全保障に著しい支障を及ぼすおそれがある」と判断すれば、国会などから求められても秘密の提示を拒むことができるとしている。
開示された文書によると13年9月、同法の政府原案の提示を受けた検査院は、「安全保障に著しい支障を及ぼすおそれ」がある場合、特定秘密を含む文書の提供を検査対象の省庁から受けられない事態がありうるとして、内閣官房に配慮を求めた。憲法90条は、国の収入支出の決算をすべて毎年、検査院が検査すると定めているためだ。
ところが、内閣官房は「検査院と行政機関で調整すれば(文書の)提供を受けることは可能」などと修正に応じなかった。検査院側も譲らず、同年10月上旬まで少なくともさらに2回、憲法上問題だと法案の修正を文書で繰り返し求めた。
結局、検査院と内閣官房の幹部同士の話し合いを経て同年10月10日、条文の修正をしない代わりに「秘密事項について検査上の必要があるとして提供を求められた場合、提供する取り扱いに変更を加えない」とする文書を内閣官房が各省庁に通達することで合意した。約2週間後の10月25日に法案は閣議決定され、国会に提出されて同年12月に成立した。
それから2年たつが7日までに通達は出ていない。会計検査院法規課は取材に「今のところ、特定秘密を含む文書が検査対象になったという報告は受けていない」とした上で「我々は憲法に基づいてやっており、情報が確実に取れることが重要。内閣官房には通達を出してもらわないといけない。(条文の修正を求めるかどうかは)運用状況を見てのことになる」と話した。
内閣官房内閣情報調査室は取材に「憲法上の問題があるとは認識していない。会計検査において特段の問題が生じているとは承知していない」と答えた。通達については「適切な時期に出すことを考えている」としている。
◇検査院は追及を
右崎正博・独協大教授(憲法)の話 特定秘密という「聖域」をつくって検査対象から外すやり方は事実上の憲法改正に等しい。内閣官房や政権の憲法に対する対応が問われている。検査院にとっても重大な憲法問題が棚上げされているのだから、追及すべき問題だ。
◇情報隠し 危険はらむ
会計検査院にとって、大日本帝国憲法下では軍事関係予算の検査に限界があった。政府・軍の機密費が会計検査の対象外だったため、膨れ上がった軍関係予算の多くがブラックボックスに入った。「会計検査院百年史」は、軍事上の秘密漏えいを処罰する軍機保護法(1937年改正)によって「会計検査はかなり制約を受けた」と記す。
現行憲法90条はこうした反省から「国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院が検査する」と規定する。検査院は内閣から独立している。これまでも自衛隊法の規定する防衛秘密について検査院への提供を制限する規定はなかった。
特定秘密には防衛や外交などの予算措置に関する文書が含まれる。
秘密保護法10条1項について、元会計検査院局長の有川博・日本大教授(公共政策)は「検査を受ける側が(提出文書を)選別できるなら、憲法90条に抵触すると言わざるを得ない」と指摘する。
国の重要な秘密の漏えいや不正な取得に重罰を科す秘密保護法は、運用次第で深刻な情報隠しにつながりかねない危険をはらむ。疑念を解消する努力が政府に求められる。【青島顕】

(島人の目)真珠湾攻撃雑感 - 琉球新報(2015年12月7日)

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-184273.html
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三十数年前、米国で迎えた初冬。日本人宅でのパーティーで「12月は日本人にとって気を付けるべき月」だと言われ緊張したのを覚えている。12月7日になると「リメンバー、パールハーバー」の合言葉がテレビで流され、米国人にとって日本軍の卑劣な行いを思い出させる日になり、現に石を投げられた日本人がいたと聞かされた。
米国は日本軍の真珠湾奇襲攻撃で、多くの艦船と航空機を破壊され、死者約2400人、負傷者1200人近い犠牲者を出した。怒ったルーズベルト大統領は報復すべしと日本へ宣戦布告した。戦後40年たってもそれを忘れない米国人の恨みを痛感し、当時周りの在米日本人たちは真珠湾攻撃は、不名誉なことだったと肝に銘じていた。
月日が流れ、「宣戦布告なしのだまし討ち」と言われた真珠湾奇襲攻撃の史実が覆される真相の文献や書物が数々出版された。
映画評論家のジョージ・モーゲンスターンは真珠湾の真相を追究しようと調査し、1947年に「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」でルーズベルトの陰謀を明らかにしたが、日本語翻訳版が出たのは50年以上たってからだった。
ルーズベルトの娘婿カーチス・B・ドール大佐は著書「操られたルーズベルト」で米国が日本を戦争に巻き込んだと暴露。歴史家チャールズ・ビアードは「ルーズベルトの責任」で戦争責任はルーズベルトにあると喝破。共和党の重鎮ハミルトン・フィッシュは、対日最後通告(ハル・ノート)の存在を国民に隠したことを反省し「ルーズベルトの開戦責任」をまとめた。ピュリツァー賞作家のジョン・トーランドは、大統領が事前に日本軍の攻撃を知っていたとする「真珠湾攻撃」を出版した。
退役軍人のロバート・スティネットは「真珠湾の真実―ルーズベルト欺瞞(ぎまん)の日々」で、機密解除された20万件の政府や軍の文書等を調査。「真実を50年も隠し続け、アメリカの歴史を見る世界の目を大きくゆがめてしまった」と述べている。
息子らが使っていた教科書には真珠湾攻撃に関して「米政府は日本極秘の暗号を傍受し、解読していた」と明記されている。戦争を欲した米国に日本はうまく利用され、アメリカの手の中で泳がされてきた。今も上から目線のアメリカに追随している。安倍政権が対等の立場でなくアメリカの手中にあるように見えて仕方ない。
(鈴木多美子、バージニア通信員)

「辺野古、第二の捨て石」 屋良朝苗シンポ 復帰、基地語る - 琉球新報(2015年12月7日)

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山根氏は、屋良氏と翁長知事の共通性について「行政と大衆を接合して県民の要求を日本政府に突き付けるという屋良朝苗の精神や手法は、翁長知事の『自己決定権』や『オール沖縄』といった思想と行動様式に引き継がれている」と指摘した。
村出身の糸数慶子参院議員を進行役に迎えたパネル討議では、会場からの質問に答えながら意見が交わされた。
討議の中で石川氏は「屋良先生は一人の人間が身命を賭して行動を貫徹するということを歴史から学び行動に移した。同様の手法は今日にも有効だ」と述べ、あらためて屋良氏の気概を強調した。

開戦74年に考える 「サビタの記憶」が描くもの - 東京新聞(2015年12月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015120802000119.html
http://megalodon.jp/2015-1208-0931-00/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015120802000119.html

戦争は突然始まるものではありません。いつの間にか人々に忍び寄り、気付いたときには巻き込まれている。先の大戦もそうでした。きょう十二月八日。
北海道を拠点に活躍した作家、原田康子さん(一九二八〜二〇〇九年)の作品に「サビタの記憶」という短編があります。女学生が保養のため温泉で過ごしたひと夏の思い出を、みずみずしい感性で描き出したものです。
五四年に書かれ、新潮社の「全国同人雑誌推薦小説」に応募し、入選しました。奔放な女性の生き方を描き、映画化もされたベストセラー「挽歌(ばんか)」を世に送り出すきっかけともなった文壇出世作です。

サビタの記憶・廃園 (新潮文庫)

サビタの記憶・廃園 (新潮文庫)

◆少女のひと夏の物語
作品の舞台は<私の街から汽車とバスで四時間ほど北の高原にある>K温泉。<私>の街を、原田さんが幼少期を過ごした北海道釧路市と考えると、K温泉は現在の弟子屈町にある川湯温泉です。
<私>は<女学生になったばかり>の<病弱な少女>。一年の大半を病床で過ごすので、青白く痩せています。入学二カ月後に微熱が出始めたため、学校を休み、ひと夏の保養のために預けられたのが、父母と親しい付き合いのあったK温泉の<山城館>でした。
<はじめての一人の生活>に<ぼんやりした期待さえ感じていた>のですが、散歩したり、昼寝したり、本を読んだりという日課は単調で、<ときどき無性にさびしく>なります。
そんなとき、<どうしたの?>と突然、肩に手をかけてきたのが<比田(ひだ)>という<背の高い男>。年は<きっと二十五か三十>くらいで、<私>の左隣の部屋に泊まっている客でした。
<私>は<比田>とすぐに仲良くなります。<比田>の部屋に行っては本について話したり、絵を描いたり、窓の手すりに並んで話したり、夕食を一緒に食べたり。
◆戦争はろくでもない
雷の夜には<比田>の布団に潜り込み、そのまま寝てしまったりもします。保養先での退屈な日常が一人の男の登場で華やぎます。大人へのあこがれ、淡い恋心、そして恥じらい…。
四、五日後、二人は散策に出掛け、<比田>は小さな花をいっぱいつけた、低い灌木(かんぼく)の小枝を折り、手渡します。
<なんて花?><サビタ>
サビタはノリウツギの別名で、毎年夏に白い花が咲き、甘い香りを放ちます。<比田>はサビタの花で押し花をつくりました。
しかし、物語は<比田>を訪ねてきた<緑色のドレスを着た見知らぬ女>の登場で波乱を予感させ、<カンカン帽をかぶり、背広を着ていた>二人の男の登場で暗転します。男たちは<比田>を<ヒロセ>と呼び、手帳を見せると<比田>に手錠をはめ、自動車に乗せて走り去ります。
<比田さんは、なにを、したの?>と、途切れがちに聞く<私>に、宿の人は答えます。<シソウハンらしいって――>
秋になり、<私>は学校に戻りますが<比田>を忘れることはできません。手錠の意味を知るのは恐ろしかったけれども、教科書からサビタの押し花がこぼれ落ちると、悲しくなります。純真で多感な少女に忍び寄る、戦争の影。
小説は次の一文で終わります。<その年の十二月に、イギリス、アメリカとの戦争がはじまった>
長い紹介になりましたが、この時期、日本はすでに満州事変に端を発する十五年戦争に突入していました。原田さん自身は四五(昭和二十)年八月十五日、勤労奉仕先だった北海道津別町の軍需工場で終戦を迎えます。
その一カ月前、釧路も空襲を受け、壊滅的な被害を受けました。家が焼けたり、両親や兄弟を亡くした友人が何人もいたといいます。終戦数日前のソ連参戦を知って、北海道はもう終わりだと、絶望していたそうです。
原田さんは晩年、北海道新聞のインタビューに「戦争は本当にろくなものではありません。平和な日常しか知らない今の若い人たちは幸せだとは思うけれど、これが当たり前だと思い込んでしまったら、日本は大変なことになるのではと心配です」と答えています。
◆体験を語り継ぐ責任
「たとえ理解されなくても、私は物書きである以上、敗戦体験も語り伝えなければと思うのです」とも語った原田さん。学徒動員で南方に送られた夫、佐々木喜男さんの戦争体験を小説に書きたいと構想していたそうです。
原田さんにとって「サビタの記憶」は「挽歌」以上に好きな作品だったといいます。七十四年前、日本が太平洋戦争に突入したきょう、原田さんが「サビタの記憶」に込めたメッセージを読み取りたい。繰り返します。戦争は突然始まるというよりも、足音静かにやってくるのです。

(筆洗)「赤鼻のトナカイ」など、この季節 - 東京新聞(2015年12月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015120802000116.html
http://megalodon.jp/2015-1208-1053-15/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015120802000116.html

「赤鼻のトナカイ」など、この季節、町中に溢(あふ)れるクリスマスソング。最近ではキリスト教徒ばかりではなかろうと、クリスマスの名称を消して、ホリデーソングなる言い方もあるそうだが、名はどうであれ、耳にすれば、自然と心が浮き立つものだ。
米国のラジオ局はクリスマスソングにこだわる。局の中には十一月の感謝祭が終わるやいなや、十二月二十五日まで二十四時間、クリスマスソングしか流さないという極端なところもある。
聞いてみたいと思う方もいるか。お薦めできぬ。米国赴任中の経験だが、あれだけ続くと、拒否反応も出てくる。無理に口を開けさせられ、陽気さ、楽しさ、幸福感を流し込まれている気にさえなる。
それでもクリスマスソングなら、まだましであろう。<ラジオは、けさから軍歌の連続だ。一生懸命だ。つぎからつぎと、いろんな軍歌を放送して、とうとう種切れになったか、敵は幾万ありとても、などという古い古い軍歌まで飛び出して…>。太宰治がその日について書いている。一九四一(昭和十六)年十二月八日。日本は太平洋戦争に突入した。
半藤一利さんによると、その日のラジオは、「臨時ニュースのないときには軍歌だけが流れていた」という。国民が口を開けさせられ、押しつけられていたのは「戦え」か。
二〇一五年十二月。そんな曲が交じっていないか。耳をそばだてる。

茨城の92歳 中国での戦禍の記憶描き続ける 「悲惨さありのままに」 - 東京新聞(2015年12月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120802000113.html
http://megalodon.jp/2015-1208-1046-21/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120802000113.html

約七十年前に経験した中国の戦場を絵に描き、子どもたちに伝えようとする人がいる。次々と倒れた戦友たち。ネズミやヘビを食べた極限の飢え。日本軍の中国への侵略が、一九四一年十二月八日の太平洋戦争開戦へとつながった。「あの戦争を伝えられるのは、もう自分だけだ」。こんな思いで日々、ペンを握る。 (山下葉月)
小さな机に画用紙を広げ、黙々と描くのは、茨城県ひたちなか市の井上利男さん(92)。絵は得意ではないが「言葉より、見たものをそのまま伝えられる」とあえて選んだ。二年前から描き始め、現在までに完成したのは四十枚以上。素直な筆致で、戦争の狂気をあぶり出そうとする。
二十一歳だった四四年秋、旧陸軍水戸歩兵第二連隊の一員として、中国北部に入った。「これから敵と戦うと思うと武者震いがした」という。
戦場は過酷だった。先輩兵に殴り抜かれて恐怖心がまひし、最後は「弾に当たって死ぬのも本望だ」と思うようになった。戦況が悪化すると、戦友は次々と倒れていった。
終戦一カ月後の四五年九月、中国南部の湖南省長沙で中国軍に捕らえられ、農村で捕虜生活に入った。倉庫のような建物に二十人が詰め込まれ、行動範囲は半径三百メートルだけ。あまりのひもじさにネズミやヘビを捕まえて食べ、村の中国人の目を盗んで豚の餌も口にした。見つかると憎悪の目でにらまれ、殴られた。
飢えや病気で死んだ戦友は約百人。その遺体を裏山に葬った。「仲間を山に埋めたなんて、とても人には話せない」と帰国後も苦しみ続けた。
転機は数年前。共に茨城に生還した戦友が、亡くなったことだった。生前、「中国で死んだ者がかわいそうだ。無念さを伝えなくては、俺は死にきれない」と話していた。約百十人いた中隊で生き残っているのは、ついに井上さんだけになった。
「何をすればいいのか」。戦地から持ち帰った軍隊手帳を開いて考えた。布製の表紙は汚れ、所々ほつれているが、行軍の様子を詳細に記してある。記述を頼りに苦しい記憶をたどり、二年前から絵を描き始めた。できあがった作品をまとめ、子どもたちの前で紙芝居として披露した。
「シベリア抑留は知られているが、中国に残された者も大勢が苦しい思いをした。自分が伝えないといかん」。戦友の遺志を継ぎ、気力が続く限り、描き続けるつもりだ。

マタハラ防止を義務化 介護休業の分割可能に 厚労省改正案を提示 - 東京新聞(2015年12月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201512/CK2015120802000120.html
http://megalodon.jp/2015-1208-1048-30/www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201512/CK2015120802000120.html

厚生労働省は七日、マタニティーハラスメント(マタハラ)の防止策の企業への義務化などを柱とした仕事と育児・介護の両立を支援する制度の改正案を労働政策審議会分科会に示し、大筋で了承された。介護休業を分割して取ることや非正規労働者育児休業取得要件の緩和にも大きな異論はなかった。

沖縄基地返還 危険性は取り除けない - 朝日新聞(2015年12月8日)

http://www.asahi.com/articles/DA3S12106219.html?ref=editorial_backnumber
http://megalodon.jp/2015-1208-1054-43/www.asahi.com/paper/editorial.html?iref=comtop_pickup_p

沖縄の米軍基地の返還が進むことは歓迎したい。だからといって、県民の意思に反して、普天間飛行場辺野古移設を強行する理由にはならない。
官房長官ケネディ駐日米大使が先週、米軍普天間飛行場の一部などを2017年度中に返還することで合意した。
合意したのは、普天間飛行場東側沿いの土地4ヘクタールと、米軍牧港補給地区の国道58号に隣接する土地約3ヘクタールなどだ。
この土地はともに20年ほど前に返還が合意されていた。返還されれば、宜野湾市市道の整備や国道の拡幅に使われ、市民の利便性は高まるだろう。
だとしても、今回の基地返還は普天間飛行場の危険性の除去につながらない。国土交通相翁長雄志知事を訴えた代執行訴訟など、安倍政権の沖縄に対する強圧的な姿勢を正当化することはできない。
今回返還される飛行場東側の4ヘクタールは飛行場全体の0・8%。牧港補給地区の3ヘクタールを合わせても、県内の米軍専用施設の0・03%と、ささやかな規模だ。
普天間辺野古に移り、嘉手納基地より南の米軍基地がすべて返還されるという前知事時代の2年前の日米合意がすべて実現したとしても、沖縄の米軍専用施設の割合は全国の73・8%から73・1%へと、わずか0・7ポイント減るだけである。
なのになぜ、普天間飛行場の代替施設は、同じ沖縄県内でたらい回しすることが前提になっているのか。沖縄県辺野古移設に同意しない根本的な理由はそこにある。
沖縄では来年1月、普天間飛行場を抱える宜野湾市の市長選がある。6月以降は県議選や参院選も控えている。
市長選は、辺野古移設容認の現職と反対派の新顔がぶつかる公算が大きい。政府としては、長年進まなかった基地返還を実現することで、現職を側面支援する狙いもあるのだろう。
その意図はともかく、政府がさらに基地の早期返還に努めるのは当然のことである。
同時に、政府にはもっと大きな視野をもってもらいたい。
民意に背いて移設を強行すれば、円滑な工事も、移設後の基地の安定的な運営も望めないだろう。長期的にみれば日本の安保環境を損ねる恐れがある。
普天間の危険性を取り除くには結局、「普天間辺野古か」の二者択一を脱し、日米両政府も、沖縄県民も納得できる「第三の道」を探るしかない。
辺野古固執する姿勢は問題解決を遠ざける。日米両政府はそのことに早く気づくべきだ。