茨城の92歳 中国での戦禍の記憶描き続ける 「悲惨さありのままに」 - 東京新聞(2015年12月8日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120802000113.html
http://megalodon.jp/2015-1208-1046-21/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120802000113.html

約七十年前に経験した中国の戦場を絵に描き、子どもたちに伝えようとする人がいる。次々と倒れた戦友たち。ネズミやヘビを食べた極限の飢え。日本軍の中国への侵略が、一九四一年十二月八日の太平洋戦争開戦へとつながった。「あの戦争を伝えられるのは、もう自分だけだ」。こんな思いで日々、ペンを握る。 (山下葉月)
小さな机に画用紙を広げ、黙々と描くのは、茨城県ひたちなか市の井上利男さん(92)。絵は得意ではないが「言葉より、見たものをそのまま伝えられる」とあえて選んだ。二年前から描き始め、現在までに完成したのは四十枚以上。素直な筆致で、戦争の狂気をあぶり出そうとする。
二十一歳だった四四年秋、旧陸軍水戸歩兵第二連隊の一員として、中国北部に入った。「これから敵と戦うと思うと武者震いがした」という。
戦場は過酷だった。先輩兵に殴り抜かれて恐怖心がまひし、最後は「弾に当たって死ぬのも本望だ」と思うようになった。戦況が悪化すると、戦友は次々と倒れていった。
終戦一カ月後の四五年九月、中国南部の湖南省長沙で中国軍に捕らえられ、農村で捕虜生活に入った。倉庫のような建物に二十人が詰め込まれ、行動範囲は半径三百メートルだけ。あまりのひもじさにネズミやヘビを捕まえて食べ、村の中国人の目を盗んで豚の餌も口にした。見つかると憎悪の目でにらまれ、殴られた。
飢えや病気で死んだ戦友は約百人。その遺体を裏山に葬った。「仲間を山に埋めたなんて、とても人には話せない」と帰国後も苦しみ続けた。
転機は数年前。共に茨城に生還した戦友が、亡くなったことだった。生前、「中国で死んだ者がかわいそうだ。無念さを伝えなくては、俺は死にきれない」と話していた。約百十人いた中隊で生き残っているのは、ついに井上さんだけになった。
「何をすればいいのか」。戦地から持ち帰った軍隊手帳を開いて考えた。布製の表紙は汚れ、所々ほつれているが、行軍の様子を詳細に記してある。記述を頼りに苦しい記憶をたどり、二年前から絵を描き始めた。できあがった作品をまとめ、子どもたちの前で紙芝居として披露した。
「シベリア抑留は知られているが、中国に残された者も大勢が苦しい思いをした。自分が伝えないといかん」。戦友の遺志を継ぎ、気力が続く限り、描き続けるつもりだ。