開戦74年に考える 「サビタの記憶」が描くもの - 東京新聞(2015年12月8日)

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戦争は突然始まるものではありません。いつの間にか人々に忍び寄り、気付いたときには巻き込まれている。先の大戦もそうでした。きょう十二月八日。
北海道を拠点に活躍した作家、原田康子さん(一九二八〜二〇〇九年)の作品に「サビタの記憶」という短編があります。女学生が保養のため温泉で過ごしたひと夏の思い出を、みずみずしい感性で描き出したものです。
五四年に書かれ、新潮社の「全国同人雑誌推薦小説」に応募し、入選しました。奔放な女性の生き方を描き、映画化もされたベストセラー「挽歌(ばんか)」を世に送り出すきっかけともなった文壇出世作です。

サビタの記憶・廃園 (新潮文庫)

サビタの記憶・廃園 (新潮文庫)

◆少女のひと夏の物語
作品の舞台は<私の街から汽車とバスで四時間ほど北の高原にある>K温泉。<私>の街を、原田さんが幼少期を過ごした北海道釧路市と考えると、K温泉は現在の弟子屈町にある川湯温泉です。
<私>は<女学生になったばかり>の<病弱な少女>。一年の大半を病床で過ごすので、青白く痩せています。入学二カ月後に微熱が出始めたため、学校を休み、ひと夏の保養のために預けられたのが、父母と親しい付き合いのあったK温泉の<山城館>でした。
<はじめての一人の生活>に<ぼんやりした期待さえ感じていた>のですが、散歩したり、昼寝したり、本を読んだりという日課は単調で、<ときどき無性にさびしく>なります。
そんなとき、<どうしたの?>と突然、肩に手をかけてきたのが<比田(ひだ)>という<背の高い男>。年は<きっと二十五か三十>くらいで、<私>の左隣の部屋に泊まっている客でした。
<私>は<比田>とすぐに仲良くなります。<比田>の部屋に行っては本について話したり、絵を描いたり、窓の手すりに並んで話したり、夕食を一緒に食べたり。
◆戦争はろくでもない
雷の夜には<比田>の布団に潜り込み、そのまま寝てしまったりもします。保養先での退屈な日常が一人の男の登場で華やぎます。大人へのあこがれ、淡い恋心、そして恥じらい…。
四、五日後、二人は散策に出掛け、<比田>は小さな花をいっぱいつけた、低い灌木(かんぼく)の小枝を折り、手渡します。
<なんて花?><サビタ>
サビタはノリウツギの別名で、毎年夏に白い花が咲き、甘い香りを放ちます。<比田>はサビタの花で押し花をつくりました。
しかし、物語は<比田>を訪ねてきた<緑色のドレスを着た見知らぬ女>の登場で波乱を予感させ、<カンカン帽をかぶり、背広を着ていた>二人の男の登場で暗転します。男たちは<比田>を<ヒロセ>と呼び、手帳を見せると<比田>に手錠をはめ、自動車に乗せて走り去ります。
<比田さんは、なにを、したの?>と、途切れがちに聞く<私>に、宿の人は答えます。<シソウハンらしいって――>
秋になり、<私>は学校に戻りますが<比田>を忘れることはできません。手錠の意味を知るのは恐ろしかったけれども、教科書からサビタの押し花がこぼれ落ちると、悲しくなります。純真で多感な少女に忍び寄る、戦争の影。
小説は次の一文で終わります。<その年の十二月に、イギリス、アメリカとの戦争がはじまった>
長い紹介になりましたが、この時期、日本はすでに満州事変に端を発する十五年戦争に突入していました。原田さん自身は四五(昭和二十)年八月十五日、勤労奉仕先だった北海道津別町の軍需工場で終戦を迎えます。
その一カ月前、釧路も空襲を受け、壊滅的な被害を受けました。家が焼けたり、両親や兄弟を亡くした友人が何人もいたといいます。終戦数日前のソ連参戦を知って、北海道はもう終わりだと、絶望していたそうです。
原田さんは晩年、北海道新聞のインタビューに「戦争は本当にろくなものではありません。平和な日常しか知らない今の若い人たちは幸せだとは思うけれど、これが当たり前だと思い込んでしまったら、日本は大変なことになるのではと心配です」と答えています。
◆体験を語り継ぐ責任
「たとえ理解されなくても、私は物書きである以上、敗戦体験も語り伝えなければと思うのです」とも語った原田さん。学徒動員で南方に送られた夫、佐々木喜男さんの戦争体験を小説に書きたいと構想していたそうです。
原田さんにとって「サビタの記憶」は「挽歌」以上に好きな作品だったといいます。七十四年前、日本が太平洋戦争に突入したきょう、原田さんが「サビタの記憶」に込めたメッセージを読み取りたい。繰り返します。戦争は突然始まるというよりも、足音静かにやってくるのです。