週のはじめに考える 歴史的な抱擁は教える - 東京新聞(2019年10月13日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019101302000153.html
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病床の元インドネシア大統領(九月死去)と、同国の支配から独立した東ティモールの元大統領が交わした歴史的な抱擁について、語りたいと思います。
七月、闘病中のハビビ元インドネシア大統領=当時(83)=を見舞ったグスマン元東ティモール大統領(73)が、何かささやきながら額にキスし、胸に頭を埋めました。ハビビ氏もグスマン氏の手を取り、口がかすかに動いていたように見えます。敵対してきた両国の元指導者の心が一つになったような光景でした=写真(上)。

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◆死の50日前、病室で
グスマン氏に同行し、ビデオの撮影に携わった東ティモールのカルロス駐インドネシア大使に許可をいただき、画像を掲載します。大使は「二人の偉大な指導者は、この抱擁で人間性と慈悲の心、謙虚さ、そして友愛のあるべき姿を示してくれました」と振り返ります。
ハビビ氏は約五十日後、世を去りました。
両国は、とても指導者同士が抱擁できるような関係ではありませんでした。ポルトガルの植民地だった東ティモールは、スハルト独裁政権下のインドネシアに一九七六年、武力で併合されました。放火、殺害、レイプ…。独立運動は徹底的に弾圧され、四半世紀で餓死を含め二十万人が死亡したといわれます。
その改善の糸口を示したのがハビビ氏でした。スハルト政権が瓦解(がかい)した九八年、副大統領から後継大統領に就いたハビビ氏は、半年余で東ティモール独立に道筋を付ける住民投票実施を決断します。

◆弾圧から解放への転換
ずっと抑圧してきたのになぜ方向変換を? 諸説あります。「国軍が住民投票しても独立派は少数と読んでいたため」「独立派司教らがノーベル平和賞を受けて国際圧力が高まったため」などです。そして「これ以上、強権的に支配してはならない」という人道的な動機があったかもしれません。
住民投票は翌九九年に行われました。国軍の見通しは外れ、独立派が78・5%を得て圧勝。三年後、東ティモールは二十一世紀最初の独立国としてよちよち歩きを始め、現在に至っています。
ハビビ氏は在任五百日ほどで、国会から不信任され退陣します。不人気でした。百数十億ドルともされるスハルト氏側の不正蓄財への追及が甘かったからと言われますが「領土」を失った国民の失望もあったと指摘されます。
東ティモールの独立派ゲリラとの闘争で、少なからぬインドネシア国軍兵士も斃(たお)れました。インドネシアからみれば「命を張って守ってきた領土なのに、手放すチャンスを与えてしまった」のがハビビ大統領だったというわけです。
その独立派ゲリラの中心人物で東ティモール内で英雄視されていたのが、グスマン氏でした。東ティモールの初代大統領として、独立国の揺籃期(ようらんき)を引っ張りました。
「独立はあなたの決断のおかげです」「喜んでもらえてうれしい」-。カルロス大使は二人の会話を明かしてくれませんが、そんなやりとりがあったとしても、不思議ではありません。
インドネシアの理不尽な併合で四半世紀も支配された東ティモール。独立後も残ったわだかまりをとろりと解かす抱擁でした。
国と地方の指導者同士ということで想起されるのは、安倍晋三首相と故翁長雄志・前沖縄県知事のことです。記憶に残る写真はハビビ氏とグスマン氏の抱擁とはあまりにも対照的な一枚。二〇一七年六月、同県糸満市での式典で翁長氏が首相に厳しい視線を投げかけたそれです=写真(下)。

 

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昨年の知事選では、翁長氏に続いて辺野古移設反対派の玉城デニー氏が当選。法的拘束力がないとはいえ、二月の県民投票では移設反対票が72%でした。それでも辺野古埋め立ては続きます。

◆沖縄と東ティモール
むろん、沖縄と東ティモールとは政治的に同列には論じられません。でも「中央に虐げられた島」として似た面があるようにもみえます。国と地方の指導者が互いに胸襟を開く勇気と寛容さを、南の島の元指導者たちは教えています。