(斜面) 沖縄の損失を食い止めようと奮闘した政治家 - 信濃毎日新聞(2019年5月15日)

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190515/KT190514ETI090008000.php
http://archive.today/2019.05.15-013100/https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190515/KT190514ETI090008000.php

那覇市はその日雨が降っていた。琉球銀行ではドル紙幣を携えた市民が列を作り、窓口で円の新券に交換した。1972年5月15日、沖縄の本土復帰初日の光景だ。「悔しさと怒りでいっぱいです」。本紙夕刊は市民の声を伝えている

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前年のニクソン・ショックを機に1ドル=360円の固定相場が崩れた。米施政権下の沖縄の人々はドルが下がれば復帰に伴う円への交換時に損失を負う。政府は「360円で早期交換」との求めに応じる姿勢を見せつつ復帰直前に「305円」を決めた

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軽部謙介著「沖縄経済処分」によるとニクソン政権の標的は対米黒字が拡大していた日本だった。当時、日本の統治下にはなく対米黒字の責任も全くない沖縄が為替調整の大津波を受けることになる。本土の復帰祝賀ムードの陰で沖縄の人々は物価上昇や賃金の目減りに苦しんだ

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政府内には沖縄の損失を食い止めようと奮闘した政治家もいた。総理府総務長官だった故山中貞則さんだ。琉球政府と救済策を練って米国民政府に極秘で実行。不十分ながら成果を挙げた。蚊帳の外に置かれた米側の怒りは容易に収まらなかったという

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鹿児島県選出の山中さんは薩摩による琉球支配や沖縄戦を踏まえてのことか、「政治家として命ある限り沖縄に尽くす」が口癖だった。信念と償いの気持ちが原動力だったとされる。辺野古新基地建設を巡り「沖縄に寄り添う」と空虚な言葉を繰り返す政治家に爪の垢(あか)を煎じて飲ませたい。