<にっぽんルポ>長野・松本少年刑務所 塀の中の学校で - 東京新聞(2018年12月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018121502000261.html
http://web.archive.org/web/20181215122503/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201812/CK2018121502000261.html

北アルプスの稜線(りょうせん)が美しい山紫水明の地に、異質にも映るコンクリート塀が現れた。JR松本駅(長野県松本市)から車で十分ちょっと。厳重に管理された松本少年刑務所にたどり着いた。
向かったのは、刑務所の階段を上った先にある教室。日本で唯一、世界でも珍しい刑務所内の学校「旭町中学校桐分校」だ。
「さあ、アルトリコーダーの練習時間ですよ」。音楽の授業で、降旗(ふりはた)信一先生(55)が声を張る。授業を受けるのは、受刑者の山田健人さん(27)と中東出身のカリムルーさん(51)=いずれも仮名。授業はあくまで、受刑者に科される刑務作業の代わり。国から貸与された学ランを着るのは、「作業服」だからだ。
丸刈り姿の生徒の肩が、呼吸に合わせて小さく上下する。唱歌「故郷(ふるさと)」を奏でるリコーダーの音色が刑務所内に響き渡った。

 学級文庫やロッカー、壁には給食の献立に学級目標。一見、普通の教室のようだが、窓は幾何学模様の鉄格子が張り巡らされ、逃走防止の非常ベルや緊急電話もある。教室の後ろでは、刑務官が静かに目を光らせていた。
桐分校は一九五五(昭和三十)年の創立。松本少年刑務所の受刑者の八割が中学を卒業しておらず、当時の所長や松本市教育委員会などが設置に奔走した。現在は年齢にかかわらず、全国の刑務所から希望者を募り、受け入れる。
法務省によると、二〇一二〜一六年度の五年間で、桐分校出身で本来の刑務所を出所したのは二十二人。このうち再び罪を犯して刑務所に戻ったのは一人で、再入率は4・5%。同時期の全国平均は40・9%だ。
小さな学びやは、受刑者たちが本来生きていくべき道に立ち戻る手助けをしてきた。

◆家族のために
旭町中学校桐分校に通う二人の生徒に授業後、声を掛けた。
「親に愛された記憶なんてない」。山田健人さんは幼い頃から父母の暴力を受けて育ったという。耐えた帰結は、感情を言葉で表現できない人間になったこと。
高校一年の冬に中退。解体現場で働き始めたが、十七歳の時、十四歳の彼女を妊娠させた。「赤ちゃんはかわいいって分かる」。だが、どう守ればいいのか分からない。心の混乱は、街へ繰り出し、人に拳をふるう形で噴き出した。「結局、俺も親と同じことしているじゃねぇか」
一度目は傷害、二度目は傷害と強盗致傷で逮捕された。収容先の刑務所で刑務官らに桐分校を紹介され、門をくぐった。「出所したら子どもに勉強を教えたい。授業は本当に大変ですけど、子どものためなら…」
受刑者は一年間の在学中、中学三年の国語や英語など一日七時間の授業と、三時間の自習をこなす。
単独室で自習していたカリムルーさんを訪ねた。扉は閉められたまま、鉄格子に切り取られた小窓から声を掛けた。
「何を読んでいるんですか?」。背中を丸めて、目をこらしていた。「先日、ぼくの誕生日で家族から手紙が届きました。授業で習ったので、漢字も読めるようになったんです」。便せんを、うれしそうに胸元に引き寄せた。
中東の国で、十人きょうだいの八番目として生を受けた。「幸せな国らしい」と噂(うわさ)を信じ、一九九〇年に来日。配送やとび職の仕事をしたが、ケガで働けなくなり、覚醒剤の密輸に手を出した。懲役十年。日本語は皮肉にも刑務所で覚えた。
出所後に日本人女性と結婚し二児を授かったが、事業に失敗した二年前、再び薬に手を染めた。「愛する家族のために、最初からやり直したい」。そう話すと、再び机に向き直った。

◆「常」に「念」じて
「桐分校のグラウンドから見える常念岳(じょうねんだけ)が魅力的でね」。分校で三十五年間教壇に立ち、十年前に引退した元教師の角谷(すみや)敏夫さん(71)が懐かしそうに語る。
標高二、八五七メートル。孤高で堂々とした常念岳のたたずまいが、卒業生に少し似ているという。「名前もいい。更生を『常』に『念』じているよって」
「優しさを知りました」「花咲く事なく続いた我が人生。小さな花を咲かせたような気がしています」。卒業生から届いた手紙の文字を、角谷さんの優しいまなざしがなぞる。
これまで七百五十四人の卒業生が桐分校を巣立った。最も多いのが、角谷さんと同じ一九四七(昭和二十二)年生まれ。終戦直後の混乱期に生まれ、まっとうな教育を受けられず、犯罪に走ってしまった若者が多い。「戦争こそ最悪の犯罪です。どれだけ人の人生を狂わせるか…」
人権上の配慮から、出所後の生徒と街で会うのはご法度。同窓会はできない。「教師になったら、成人した教え子と焼き鳥屋で一杯やりながらの再会に、普通は憧れますよね」と角谷さんは少しほほ笑んで、続けた。「いいんです。生徒たちがこの社会の片隅のどこかで元気に過ごしているって、僕にはちゃんと見えていますから」。ゆっくりと、まぶたを閉じた。

◆寄り添う母子像
暖房がよく効いた客間に通された。「東京の方に、この寒さはこたえるでしょ」。両手を広げて朗らかに出迎えてくれた女性は、刑務所近くに暮らす高野尾(たかのお)宏子さん(79)だ。
桐分校が創設される前年の五四(昭和二十九)年、生徒を物心両面で支える「少年母の会」が発足した。家庭の愛情を知らずに育った生徒も多かったため、松本市内の女性団体が結束した。弁護士をしていた夫の勧めもあり、高野尾さんも入会した。
だが、思わぬ事故に見舞われる。八四年一月二十九日、松本少年刑務所を大火が襲った。教科書や教室のピアノ、卒業生からの手紙など、庁舎は全焼した。
ゼロからの出発に力を貸したのは、本校の旭町中学校だった。当時PTA副会長だった高野尾さんは、バザーを企画。行列ができるほどの盛況だった。「出所後、彼らが最も苦労するのは、人の目。温かく迎え入れられる地域にしたいっていう思い一心だった」
三百人程度だった会員は二千人に迫り、松本随一の女性団体に。高野尾さんは現在、会の顧問を務め、刑務所内で著名人を招いた講演会を開いたり、運動会に参加したり。
年に一度の総会では、生徒から合唱のプレゼントがある。生徒が懸命に歌う姿に多くが涙するという。「罪を犯したからって、別世界の人ってわけじゃない」と高野尾さんは言う。
刑務所の庁舎入り口には、ひときわ目を引く長さ三メートルの銀色のレリーフが掲げられている。「愛の母子像」と名付けられ、火災で焼失した後、復元された。柔らかな日差しを浴びながら、女性が子どもを抱き締めている構図は変わらない。「母の愛」もまた、人間が生まれ変わる源泉の一つなのだろう。
(文・木原育子/写真・野村和宏、池田まみ)