少年法を18歳未満に? 教育での立ち直りこそ - 東京新聞(2018年12月17日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018121702000144.html
http://web.archive.org/web/20181217045000/http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018121702000144.html

民法成人年齢は十八歳に引き下げられる。少年法の適用年齢も同様でいいか。ことは単純ではない。刑罰よりも教育で立ち直る精神を重んじたい。
国会での参考人の言葉に耳を傾けてほしい。
<今の少年法は非常にうまく機能している。世界的に見ても、日本の少年犯罪率は非常に低い。うまくいっている少年法の適用年齢を引き下げる必要はない>
これは広井多鶴子実践女子大教授の衆議院での意見である。

◆凶悪化のデータはない
少年法民法の年齢引き下げは、全く問題の性質が異なる。少年法は社会からドロップアウトしてしまった若者をどうやって社会が受け入れるかだ。民法とは別に議論すべきだ>
こちらは山下純司学習院大学教授の考えだ。宮本みち子千葉大学名誉教授は次の意見である。
少年法の教育的な効果は優れている。十八歳に引き下げではなく、現在と同じでいい>
いずれも今年五月の国会での意見の要旨だが、興味深いのは三人とも「成人年齢は十八歳」に賛成なのに、少年法は「現行のまま」のスタンスなのだ。
そもそも少年法の年齢を引き下げる動機は何か。少年事件の増加や凶悪化が語られたりするが、全く根拠がない。むしろ警察白書などの統計では、少年事件は大幅に減少している。
例えば二〇一六年に少年の一般刑法犯の数字は約三万二千人だが、この数字は十三年間で実に約74%も減った。殺人や傷害致死事件の数も右肩下がり。少子化が原因かといえば、人口で比べた割合も減少なので、やはり凶悪化の事実はない。
つまり成人年齢を十八歳としたので、少年法もそれに合わせたい、動機はそれに尽きる。「国法上の統一」論である。

◆統一論は名ばかりだ
確かに民法少年法も十八歳とした方がわかりやすいという意見はあろう。だが、飲酒や喫煙、ギャンブルはいずれも現行のまま。猟銃所持は不可だ。国民年金の支払い義務もない。要するに「国法上の統一」とは名ばかりで、各法の実情を考慮している。
それを踏まえれば、うまく機能している少年法を改変し、十八歳に引き下げることには賛成できない。何よりも法制審議会の部会も現行制度の有効性は理解し、共通認識になっている。
不思議なのは部会の多くの委員が「引き下げありき」の方向なのだ。十八歳にした上で、更生のための「新たな処分」を検討している状況である。
だが、十八歳に引き下げれば、奇妙な問題が生ずる。その制度では十八歳、十九歳に対する調査や教育の対象外となり、「手抜き」状態となるからだ。本来、少年院に入るはずの少年にも、教育の手を差し伸べられなくなる。
現行制度では、すべての少年事件は家庭裁判所が扱う。家裁の調査官によって、成育歴や家庭環境などの科学的調査が行われる。少年鑑別所でも心理学の専門家らが科学的調査をする。
それを踏まえ、裁判官が検察官送致したり、少年院に送致したり、保護観察などの処分を決める。少年院や保護観察では、生活観察で個別的な指導や教育の処遇をする。刑罰より教育という考えに立つ。
だが、少年法を十八歳に引き下げると、再犯防止の教育機会は失われやすい。教育よりも、刑罰が基本の思想に変わるからだ。
検察が全事件を扱い、起訴・不起訴の判断権限を持つことになる。検察が起訴猶予にした者に対しても、裁判所で執行猶予の判決を受けた者に対しても「新たな処分」を考案できると、法制審部会の一部では考えているようだ。
だが、いったん不起訴、執行猶予となった者に過剰な個人への介入はできるのだろうか。特定の者を国の監督下に置くのと同然で、人権を不当に制限するのではないか。現行制度の維持の方がずっと安定的である。

◆心の傷を受け止めて
犯罪や非行に走る少年は自己肯定感が低いという。不幸な生い立ちを背負う者が多い。「自分など生きていても仕方がない」と考えがちなのだ。だから非行防止には、まず少年の心の傷を受けとめることである。教育的、福祉的な援助をすることである。
それで、やっと被害者の痛みや心情に向き合うことができる。謝罪の気持ちも償いの心も生まれる。自ら立ち直ることもできる。
教育力で再犯防止に挑む現行制度は、有効性が数字で裏付けられている。その仕組みをわざわざ壊す愚行がどこにあるか。法制審には人と社会を見る原点に返ってもらいたい。