(書評)流砂(りゅうさ) 黒井千次著 - 東京新聞(2018年12月2日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018120202000194.html
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◆埋もれゆく父の過去追う
[評]清水良典(文芸評論家)
八十歳、九十歳まで人が生きることが、ごく普通になってきた。人生五十年と謡った信長の時代から思えば、ほとんど二代をけみするような長大な人生だ。折しも平成が三十年で終わろうとしているが、昭和を含めれば九十四年になる。その歴史を本書は重く抱えている。
敷地内の庭を挟んだ二棟の家で暮らす「息子」と「父」の物語で、息子主体で語られるが、一貫して人称は「息子は」である。ちょっと変わっている。九十代になって安楽椅子にもたれていることが多い父の姿を、庭越しに日毎(ひごと)眺めている七十代の息子もまた、会社勤めから引退して久しい。元検事だった父が戦前に書いた分厚い報告書を所持していたことを息子は思い出し、やみくもに読んでみたくなる。しまった場所を本人に尋ねるも見つからない。やがて体調を崩した父が入院した留守中に、息子は自力で探し当てて読む。それは「思想犯の保護を巡って」という昭和十二年の報告書で、多くの思想犯を裁き転向へ追いやった「思想検事」と呼ばれる職務に父はついていたのだった。
戦前と戦後を別世界のように隔てる深い溝の向こう側の、「秘」と印が押された父の過去の内面を知る−。何か後ろめたく、引き返せない危うさをはらんでいる。読んだことを父に打ち明けられないまま、息子はたまたま出会った同じ思想検事を父に持つ女に惹(ひ)かれていく。父の過去を知るまでのスリルと、知ってしまってからのスリルがある。
歳月の証しが失われていく心象風景が本書には随所に積み重ねられている。子どもの時からあった向かいの家が、ある日取り壊され更地になっていく。また古いアルバムから一斉に写真が流れ落ちる場面の、「接着剤は死に」という言葉に胸を突かれる。父が孤独に抱え続けた過去も、一家の記憶も、あらゆるものが歳月の流砂に埋没していく。
人と家の老いの姿に重なって、いまや忘却の幕の向こうに消えようとしている昭和の歴史と記憶の自画像を見る思いがした。

講談社・2052円)

流砂

流砂

1932年生まれ。作家。著書『群棲』『一日 夢の柵』『たまらん坂』など。

◆もう1冊 
黒井千次著『老いの味わい』(中公新書)。80代を迎えた作家のエッセー集。