(書評)ぼくの兄の場合 ウーヴェ・ティム著 - 東京新聞(2018年9月2日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018090202000184.html
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◆抗う勇気がもしあれば
[評者]四元康祐(詩人、ドイツ在住)
著者は一九四〇年生まれのドイツ人。十六歳年上の兄はナチス武装親衛隊に志願するが、ウクライナの戦闘で両脚を切断され、野戦病院で死亡。弱冠十九歳だった。だが「勇敢」な兄の姿は、自らも軍人だった父の心の中で生き続け、理想化されてゆく。それに比べて弟ときたら、家業を拒み、アメリカ文化にかぶれて悉(ことごと)く父親と衝突する…。
「カール・ハインツが生きてさえいれば」そう嘆く父を見れば「兄の代わりにどの子を死なせたかったか、考えているのがわかった」。
著者は父の期待に応えるよりも「反論し、質問し、問い返す」ために「自分の言葉を見つけること」を選び、長じて物語を紡ぐ作家となる。
兄について書くことは、父について書くことでもあり、自分を新しく発見する試みである。だが彼がそれを実行できたのは、両親と姉がこの世を去ってからだった。手がかりは、兄が戦地に遺(のこ)した日記帖。「七五メートル先でイワンがタバコを吸っている。俺の機関銃のえじき」
一家族の肖像から時代と民族の実相が浮かび上がる。「勇敢さ」に取り憑(つ)かれた男たちと、彼らを信じ支え続けた女たち。「我々は何も知らなかった」を合言葉とする世代ぐるみの責任回避。屈辱的な価値観の破綻と、癒えぬ悲しみ。
彼らの「勇敢さ」とは、命令と服従の上に成り立った「暴力を振るう勇気」であり、「『ノー』と言う勇気は認められていなかった」と著者は断罪する。それでいてこう自問せずにはいられない。負傷する直前、「残酷な事柄について記録するのは意味がない」と書き残して日記を中断した兄は、そのことに気づいていたのだろうか? もしも自分が兄の立場にいたとしたら…?
その問いは現在の日本にも跳ね返って来る。私たちは「世の中と一体となる」圧力に抗(あらが)って、「一人の人間、特定の個人であろうとする」勇気を手に入れただろうか? 戦前の全体主義の亡霊が跋扈(ばっこ)するこの時代だからこそ、一人でも多くの方に本書を読んでほしい。

 (松永美穂訳、白水社・2376円)

ミュンヘン在住の作家。著書『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』など。

ぼくの兄の場合 (エクス・リブリス)

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◆もう1冊 
ベルンハルト・シュリンク著『朗読者』(新潮文庫)。松永美穂訳。