音楽の窓から世の中を眺めて「#Me Too」と表現の自由 - 毎日新聞(2018年1月31日)

https://mainichi.jp/classic/articles/20180130/org/00m/200/001000d
http://archive.today/2018.02.01-094518/https://mainichi.jp/classic/articles/20180130/org/00m/200/001000d

江川紹子
前回の本コラムで、セクハラ問題について書いたが、その後、二つの印象的な出来事があった。

一つは米ロサンゼルスで行われたゴールデン・グローブ賞の授賞式。多くの女優男優が黒い衣装に身を包み、女性への差別やセクハラはもう終わりだ、という意味を込めた“Time's up(時間切れ)”を訴えた。新たに、被害者を法律面で支援する基金が設立されるなどの対策も示された。一過性の現象にせず、問題を根絶しようという意気込みを感じる。
もう一つは、女優カトリーヌ・ドヌーヴさんを含むフランスの100人の女性が、セクハラを告発する「#Me Too(私も)」運動などを懸念する公開書簡を、仏ル・モンド紙に発表したことだ。日本でも、「『口説く自由は認められるべきだ』と男性側を擁護した」(時事通信)などと報じられた。
案の定、抗議や批判が巻き起こり、ドヌーヴさんは後日、「謝罪に追い込まれた」と伝えられた。ただ、仏リベラシオン紙に寄せられた彼女個人の新たな書簡(以下「個人書簡」と呼ぶ)では、謝罪は「忌まわしい行為の犠牲者」、つまり性暴力の被害者にのみ向けられていて、当初の公開書簡を撤回したわけではないようだ。
彼女は何が言いたかったのか、両書簡をじっくり読んでみた。それで感じたのは、彼女が投げかけた論議は、セクハラ追及vs男性擁護という表層的なものにとどまらず、芸術を巡る「倫理」と「自由」のせめぎ合いである、ということだ。
公開書簡には、こんな記述がある。

<粛清の波は、とどまるところを知らないかのようです。(中略)小児性愛者の弁護になるかもしれないということで、バルチュスの絵画が美術館から除去しろと言われています。人と作品が混同され、シネマテーク・フランセーズでのロマン・ポランスキー回顧の上映会は禁止するよう要求され、ジャン=クロード・ブリソーの上映会は延期になりました。(後略)>

ニューヨークのメトロポリタン美術館が所有する画家バルチュスの1938年の作品「夢見るテレーズ」は、少女が片膝を立て、目を閉じて夢の世界に没入する姿が描かれている。スカートはまくれ上がり、太ももが無防備にさらされて下着も見える。昨年暮れ、撤去を求める運動が起こり、6日間で1万人の賛同署名が集まった。多くの著名人がセクハラで告発されている時に、こんな作品を展示している同美術館は、のぞき見行為や子供を性的対象として見る行為を美化しているという抗議の声だった。
ポランスキー監督は、アメリカで少女への淫行(いんこう)で起訴されていたが、出廷を拒否してヨーロッパに渡った。その後は収監を恐れてアメリカの土は踏んでいない。昨秋パリで行われた彼の回顧イベントには、激しい反対の声が上がった。会場には、裸の上半身にメッセージを大書した女性たちが押し寄せて大混乱。そのため主催者は、今年1月開催予定だったブリソー監督の上映会は無期延期とした。同監督は、かつて官能的な映画「ひめごと」のオーディションで女優に自慰行為を求め、セクハラだと訴えられて有罪判決を受けており、イベント中止を求める声が上がっていた。
倫理や法に反した者を糾弾し、社会から排除する風潮は、すでに芸術にまで及び、過去の作品まで排斥する動きにつながっている。あるいは、表現の規制や自粛が起きるのではないか。彼女はそんな懸念を抱き、「自由」の側から声を上げている。
ドヌーヴさんは、個人書簡でもこんな問いを投げかけている。
「(倒錯的、暴力的な性描写で投獄された作家の)マルキ・ド・サドの古い本を焼きますか?」「(少年を自宅に住まわせた)レオナルド・ダ・ヴィンチ小児性愛の芸術家とみなし、その作品を破壊しますか?」「(南の島で少女を現地妻とした)ゴーギャンの絵を美術館の壁から引き下ろしますか?」

まさか、と思う。

けれども、現代の倫理観で過去を裁き、人と作品をいっしょくたに罰することは、それと同じではないかとドヌーヴさんは問う。

音楽の世界でも、倫理のものさしを当てれば、とんでもない生き方をした作曲家もいる。
ワーグナーは、その最たるもの。革命騒ぎでお尋ね者となり、亡命中に世話になった富豪の妻との不倫に走る。自身の妻とは別居。この不倫は「トリスタンとイゾルデ」という偉大な成果物に結実するが、彼はそれでは飽き足らず、この作品の初演を引き受けた指揮者の妻と、またもやダブル不倫に陥る。オーケストラ・リハーサルの初日に、2人の間の最初の娘が生まれた。しかも、別居していた妻の訃報が届いても、ワーグナーは葬儀にすら参列せず、一方で、その後まもなく死んだ愛犬のために墓を掘り、目に涙をためて葬ったという。別居中とはいえ、借金を踏み倒して夜逃げする彼に同行し、一時は苦労をともにした妻に対して、これはないだろう。そんな彼は、しかし、至高の宝とも言える音楽を人類にもたらした。
ドビュッシーも、相当にひどい。不倫や二股愛の末に、新たな女性と結婚したが、その後別の女性とまたもや不倫。そんな不実を繰り返し、自殺未遂を図った女性が2人。この時代に「週刊文春」があれば、早い時期に社会から抹殺されていたに違いない。そんな彼の書いた音楽に、私たちは今、うっとりと聴きほれている。
さすがにワーグナードビュッシーの作品を上演リストから外せとはならないだろうが、倫理的な問題で作品の排除を認めるなら、排除する作品とそうでないものの境界はどこに引いたらいいのだろうか。芸術も現実から完全に遊離できず、芸術家だからといって不品行でよいわけはない。その一方で、時代の価値観にあらがい、タブーに挑戦し、倫理をも超越したところから生まれる芸術もある。
セクハラ問題は、「#Me Too」運動がなければ、現実を変えようという動きに発展しなかったろう。女性たちの叫びを、押しつぶしてはならない。男にも女にも、立場を利用して他者に性的な嫌がらせをし、我慢を押し付ける権利はない。現実は、変えなければならない。
一方でドヌーヴさんの主張も、いささか極端ではあるが、大事な問題提起ではないか。ネットやメディアで他者を糾弾する風潮を嫌う彼女も、セクハラを肯定しているわけではない。一つの倫理観で、すべてを裁くことのもたらす弊害を懸念しているのだと思う。それが行き過ぎれば、表現の自由を含めた他の価値観は後景に退かざるをえなくなる。公開書簡では、それを「ピューリタニズム(清教徒的潔癖主義)」と呼んでいた。
倫理と自由のせめぎ合いは、セクハラに限った話ではない。たとえば、児童ポルノの取り締まりは、新たな被害を生まないためにも必要だが、すでにある絵画や映画まで、問題を助長するからと排除してよいのか。そういえば日本でも、宮沢りえさんが未成年の頃の写真集が児童ポルノに当たり、所持しているだけで違法となる可能性がある、という話が、国会でなされたこともある。
人種や民族に対する差別に関しても、同様の問題が生じる可能性がある。過去に作られた作品には、現代の価値観で見れば差別的なものがたくさんある。それをどうするのか? 日本でも、絵本「ちびくろ・さんぼ」は、黒人差別問題に取り組むある一家から「差別」と指摘されて、すぐに絶版となり、議論を呼んだ。
演劇やオペラ、音楽など、過去に書かれた作品を新たに演じたり演奏したりすることで成り立つ芸術には、独特の難しさもある。
魔笛」で描かれているモノスタトスは、あからさまな黒人差別だし、「カルメン」も多情な主人公の人物像や盗賊団の登場など、ジプシーと呼ばれたロマ族に対する、当時の欧州人の差別的な見方が反映している。「蝶々夫人」は、人種差別のうえ、15歳の少女に対する淫行は犯罪ではないかとの批判がなされている。グロテスクな主人公を中国人宦官(かんがん)としたバルトークの「中国の不思議な役人」も、かなりきわどい。
音楽はさまざまな問題を乗り越える力にもなり、演出で差別性をカバーする工夫もなされているけれど、差別的なもの、あるいは誰かが不快感を抱くものは排除すべきだという発想に立てば、こうした演目を上演するのはやめろ、という要求が出てくる事態も考えられなくはない。
倫理的に正しい事柄には、人々が反対しにくい。セクハラ対策しかり、差別対策しかり、青少年の健全育成しかり。けれども、そうした倫理を展開するところから表現規制が始まることもある。戦前の日本の言論統制も、まずは「善良な風俗」を守る名目で行われた。出版物に対する発禁処分は、当初は「エロ・グロの風俗関係」が9割。音楽のレコードも取り締まりの対象になった。渡辺はま子さんの歌謡曲が「甘い感触とエロを盛っている」として警察に押収されたりもしている。
繰り返すが、力関係を利用したセクハラは許されない。性暴力、児童ポルノ、性や人種による差別などはなくす努力は必要だ。ただ、倫理的に正しい主張を展開する時、表現の自由とのかねあいをどうするかは、常に頭のどこかに置いておきたい、と思う。


筆者プロフィル
江川 紹子(えがわ・しょうこ)神奈川新聞社会部記者を経てフリーライターに転身。その後、オウム真理教による一連の凶悪事件などの取材・報道を通じて社会派ジャーナリストとして注目を集める。新聞、週刊誌の連載やテレビの報道・情報番組のコメンテーターとして活躍。近年、クラシック音楽やオペラの取材、アーティストのインタビューなどにも取り組んでいる。