今も響く 桐生悠々発行「他山の石」 親族警鐘「戦前の雰囲気」 - 東京新聞(2017年9月9日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201709/CK2017090902000240.html
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昭和初期、個人雑誌「他山の石」に数多くの論説を発表し、軍部の独走や言論抑圧を批判した新聞記者桐生悠々(ゆうゆう)(1873〜1941年、顔写真、桐生文子さん提供)。晩年を過ごした愛知県に今も住む親族は、悠々が残した他山の石を読み返しながら、「今の日本が、悠々が身を賭して闘った戦前の雰囲気に近づいているのでは」と感じている。10日は76回目の悠々の命日−。 (大久保謙司)
悠々(本名政次)は石川県金沢町(現在の金沢市)生まれ。東京府庁勤務などをへて新聞記者となり、下野新聞、新愛知新聞(中日新聞の前身の一つ)、信濃毎日新聞主筆を務めた。その後、新愛知の主筆時代に建てた名古屋市守山区の家に住み、在野のジャーナリストとして他山の石を発行し続けた。
悠々の五男、故昭男さんの次女、塩見郁子さん(59)=愛知県尾張旭市=は、戦争直前の一九四一年に亡くなった悠々と面識はないが、中高生のころに昭男さんに他山の石の音読を勧められ、今も一節をそらんじることができる。
成(な)るべく超国家的、超民族的でありたいと思います。そして世界の平和、人類の幸福に貢献したいと思います−。
悠々がこう書いたことに、塩見さんは「戦時下の国粋主義の時代に、全世界的視野を持ち発言を続けた」と共感する。
昭男さんの妻文子さん(86)=名古屋市守山区=によると、昭男さんは悠々から「昭ちゃん」と呼ばれ、二人で釣りなどをして過ごすなどかわいがられていたと聞いた。「(悠々は)優しいお父さんだったようです」と懐かしむ。昭男さんは戦後、父の後を追うように中部日本新聞社(現中日新聞社)に入社し、校閲記者になった。
悠々が建てた家は戦災を免れ、悠々の自筆原稿や他山の石の原本などは焼かれずに済んだ。昭男さんは仕事から午前三時ごろ帰宅すると、四畳半の居間で他山の石を読み込んだ。戦前に当局の検閲で発禁、削除された部分があったが、悠々の自筆原稿や校正刷りを見て内容の確認を試みた。その成果は、一九八七年に刊行された「他山の石 復刻版」(不二出版)に役立てられた。
共謀罪の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法や、安保法が施行され、塩見さんは他山の石をひもとくことが増えた。「今の時代への漠然とした違和感の原因を教えてくれるような文章に行き当たったりして、自分が時代に流されないで生きる戒めになっています」

<他山の石> 桐生悠々が1934〜41年に守山区の自宅で出版した個人雑誌。原則月2回発行で、定価は1部50銭(会員制)。悠々の論説を中心に、悠々が翻訳した洋書も紹介した。太田雅夫・元桃山学院大教育研究所長の研究によると、計177号が編まれたが、「反戦思想醸成」などの理由で、悠々の死による廃刊までに28回の発禁、削除処分を受けた。悠々は言論人の心得として、「言いたいことを言うのは権利の行使」だが、「言わねばならないことを言うのは義務の履行」との言葉を残している。