終戦の日 歴史を証言する責任 主筆・小松浩 - 毎日新聞(2017年8月15日)

https://mainichi.jp/articles/20170815/k00/00m/070/144000c
http://archive.is/2017.08.15-002912/https://mainichi.jp/articles/20170815/k00/00m/070/144000c

この夏、戦火を生き抜いた人たちの言葉に、改めて耳を傾けてみたい。
たとえば、1968年8月の「暮しの手帖」特集号を一冊の本にした「戦争中の暮しの記録」だ。疎開先の子の爆死、魚の空き箱で作ったひつぎ。読者の手記を集めた290ページのどこを開いても、これだけは書いておきたい、という悲痛な声が聞こえてくる。
あるいは、戦後まもなく発表された大岡昇平の「野火」。飢餓、累々たる死、人肉食い。フィリピン戦線での兵士の極限状況を克明に描いた大岡は、ついに精神を病んだ主人公・田村一等兵に、こう独白させる。「戦争を知らない人間は、半分は子供である」
戦争とはただ残酷で、醜く、愚かなもの−−。実際の戦争を体験した人の手記や文学作品は、静かにそう告発する。その悲劇と不条理をわがものとする想像力を持たなかったら、私たちはいつまでたっても「半分は子供」のままだ。
残したい、忘れてほしくない、と言う人たち。一方で、国は戦争とどう向き合ってきただろうか。
敗戦が決定的になると、国は公文書の焼却を指示した。戦争犯罪にかかわるものは全部焼くことにしたのだと、当時の内務省官僚がのちに語っている。
終戦の一日を題材にした半藤一利氏の「日本のいちばん長い日」は、その光景を印象深く描く。東京・市ケ谷にあった陸軍省の庭には「焼いても焼いても焼きつくせぬ書類の山」が運び込まれ、高く立ち上る煙は「彼らの過去を葬っているにひとしかった」。
誰がいつどこで、何を決めたのか。大事な手がかりが永遠に失われた。
敗戦2日後に就任した東久邇稔彦首相は、全ての国民に反省とざんげを呼びかける。「一億総ざんげ」発言である。九死に一生を得た国民が、いったい、誰に何を、ざんげする必要があったというのか。
昨年のアジア・太平洋賞特別賞を受賞した堀田江理さんの著作「1941 決意なき開戦」(人文書院)は「一九四一年当時、大多数の国民の運命を決定する少数の日本人が、確かに存在していた」と指摘したうえで「彼らの開戦決定責任は、十分な検討もされないまま、それはさらに一億の国民によって、薄められたのである」と書く。
戦前の国家主義は、自己保身と組織防衛の指導原理にすぎなかった。あの戦争は、軍事力と経済力の敗北である以上に、政治文化の敗北であった。中枢における責任体系の不在という病弊は、今も、日本の政治文化の奥底に潜んでいるように思えてならない。
責任のあいまいな政治決定は、検証することができない。検証不能な政治決定は、また同じ失敗を生む。同じように、検証不能な戦争には、次の戦争の種子が宿るかもしれない。
大本営発表をそのまま記事にし、敗色を知りながら書かなかった新聞もまた、戦争責任の一端を負う。だからこそ新聞は、歴史に対して証言し続けることで、同じ過ちを繰り返さない覚悟を示すしかない。
一つの戦争をまともに生き抜いた者だけが、次の戦争を欲しない−−。そう書いた評論家がいた。
戦後72年。戦争を生き抜いた世代が、もうすぐいなくなる。戦争を知らない世代が、次の戦争の種子を平和の種子に変えるためにできること。それは証言し、記録し、沈黙の中に逃避しないこと、である。(主筆・小松浩)