(余録)日本の役所にどれほど文書がたまっていたかを… - 毎日新聞(2017年6月1日)

https://mainichi.jp/articles/20170601/ddm/001/070/144000c
http://archive.is/2017.06.01-000831/https://mainichi.jp/articles/20170601/ddm/001/070/144000c

日本の役所にどれほど文書がたまっていたかを裏側から示す出来事に終戦時の公文書焼却がある。玉音放送前日の閣議決定で公文書の焼却を命じられた内務省の官房文書課の事務官はこんな回想を残している。
「後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか分からないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で、三日三晩、炎々と夜空を焦がして燃やしました」。焼却指令は退職者が所持していた文書にも及んだ(吉田裕(よしだゆたか)著「現代歴史学と戦争責任」)
さてひそかに何か命令でもあったのか、それともそんたく上手が焼いたのか。そうもかんぐりたくなる財務省文部科学省の文書管理である。国有地の格安売却や特区の獣医学部新設で世の関心を集める文書がことごとく出てこない。
なかでも「総理のご意向」が記された文書の場合、前文科事務次官が省内の文書と確言したのに政府は「確認できない」で押し通すつもりらしい。前次官は首相補佐官の働きかけも明かしたが、これも面会の記録は案の定残っていない。
学部新設をめぐるプロセスは適切と答弁した首相だが、政策決定の公正さは後から文書で検証できるはずの今日の官僚制である。もしも政治権力にその解明を妨げる行為があれば厳しく指弾されるのは韓国や米国で見ているところだ。
国民が注目する国政の意思決定に記録がないのならば、その経緯を含め国会で解明せねばならない。記録のないことはなかったことというのは終戦時の文書焼却の論理だ。