不祥事にしら切る官邸・官僚(作家 高村薫さん) - 河北新報(2018年5月14日)


正義が価値持たぬ世界 原理原則崩壊 恐れるべき
もはや腹を立てるだけ虚(むな)しい。それほどの惨状です。一国の首相の配偶者の振る舞いに振り回されている政治の現状も、取り繕うのに必死の内閣も、ひたすら追従するだけの与党や官僚も、そして次元の低さを冷笑するだけの有権者も、全てが最低・最悪。けれども、これが民主主義国家を標榜(ひょうぼう)する日本の掛け値なしの実像なのです。
それでも以前は、不祥事が起きれば、形だけでもトップの首が飛びました。ところが、いまや誰も責任を取らない。組織の長は何かあったときに責任を取るために存在します。組織の体をなしていません。
 先日の自衛官の暴言も、自衛隊法違反に加えて民主主義の大原則を踏みにじるものだから、本来なら即、内閣総辞職でしょう。でも、防衛相も統合幕僚長も責任を取らない。文民統制を無視した防衛相の独善と暴走を危惧すべき事態です。


ネットで変化
もともと官僚が国民の方を向いて仕事をしていたとは思いません。彼らの主眼は、常に組織と省益の防衛だから、情報公開でも、都合が悪ければ当たり前のように黒塗り、そもそも追及されて困る事実は文書に残さない。徹底した文書管理が官僚の本態なのに、今回あちこちでボロが出たのは組織の緩みでしょう。
しかし、公文書の改ざんは組織の緩みではない。官庁の文書管理に本来「改ざん」の発想はないからです。結局、自分や夫人が関与していれば辞める、と断言した安倍晋三首相の稚拙な国会答弁に合わせるために、改ざんに追い込まれたとしか考えられない。官邸と官僚の異様な関係が浮かび上がりました。
時代がどんなに変わっても、変えてはならないものを原理原則と言います。公文書の保存はその一つ。それを改ざんしても罪を問われないとなると、歴史の検証ができなくなる。日本がいまだに昭和の戦争の検証と総括ができていなのは、政治家と官僚が公文書を廃棄したからです。戦争の総括ができないことで、戦後の日本人がどれほどの損失を被っているか。過去の検証ができないことの不幸は、若い世代も無縁ではない。国会と行政府から完全に独立した公文書管理機関が絶対に必要です。
社会の秩序を保つ公共の精神も、政治や統治を行うための理念も、現実には日々の仕事に、欲望に追われて生きる私たち国民が広く共有するものではありません。だから私たちは代表者を選んで政治を委託し、あるいは知識人の語る言葉に耳を傾け、新聞を読んで知識を得てきたのが、ネット社会が根本的に変えてしまいました。


文明の終わり
大衆がそれぞれにものを言い、瞬時に多数派を形成して社会を動かすようになったいま、理念や原理原則は後退し、耳を傾けるべき意見、従うべき社会常識、信ずるべき価値観が消え、全てがフラット化されてしまった。私の世代が政治の現状を憂う一方で、若い世代はなおも肯定的な人が多い。このまとまりのなさが日本を漂流させているのです。
合理的な若い世代は、国会で証人喚問しても無駄だから、それよりも重要法案を審議しろ、と言う。確かに証人喚問しても何も出てこない可能性は大だが、政治を私物化して公文書の改ざんまで引き起こした上に誰も責任を取らない、こんな政治家に重要法案など審議させてはならない。これが原理原則です。政治の停滞がもたらす不利益は、こんな政治を許してきた私たち有権者の自業自得なのです。
「忖度(そんたく)」は、一般の社会生活でも日常的にありますが、一線を越えれば当然罰せられる。今回の不祥事では、官邸も官僚も一線をはるかに越えていても、のうのうとしらを切る。この事態を、私たちは心底恐れるべきです。というのも、これは真実や正義が価値を持たなくなった世界の出現を意味するからです。
かつて「お天道(てんと)様が見ている」と言われたような絶対的な規範は、もう存在しない。いまや、うそと分かっていても、フェイクニュースであっても、「いいね」ボタンが多ければ OK という社会が出現しているのです。そして、その「いいね」も日々変わっていく。真実や正義や公正が意味をなさない時代になり、原理原則が崩壊した社会に私たちは生きています。文明の終わりの始まりなのかもしれません。