原発事故の被災病院 いまだ支援行き届かず 高野病院理事長に聞く - 日本経済新聞(2017年1月2日)

http://www.nikkei.com/article/DGXMZO11074930W6A221C1000000/
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福島県広野町の高野病院は東京電力・福島第1原子力発電所事故の後も地元にとどまって患者を受け入れ続けたことで知られる。その後も長らく地域唯一の民間病院として医療に貢献してきた。しかし事故から5年10カ月がたつ今もなかなか経営環境は改善せず、地域の復興への責任と画一的な医療行政の谷間でもがいている。高野己保(みお)理事長に現状を聞いた。
■常勤医師は81歳の院長1人、週3〜4回の当直も
――東日本大震災原発事故の後、長い間勤めてきた看護師さんが辞めていったとそうですが、その後、医療スタッフの不足は解消しましたか。
「看護師の数は45人(非常勤含む)で震災前(33人)に比べて集まっている印象を与える。しかし長く勤めたベテランが減り(慣れない)新しい人が増えた。65歳超の人や夜勤ができない人がいるなど勤務体制を組むのが難しく、来月もこの人数が確保できるのかが心もとない状況だ。人数だけをみて(病院が受け取る入院基本料の)特例措置が今年度から打ち切られた。東北厚生局からは、事情はわかるがルールだと言われた」
「医師も常勤は81歳になる院長1人になってしまい、以前からつきあいのある杏林大学からの派遣(5人)を含め非常勤の医師9人に来てもらっている。高野病院は内科療養病棟65床、精神科病棟53床で合わせて118床ある。院長は精神科医だが、内科診療もコンピューター断層撮影装置(CT)検査も何でもこなし、週3〜4回の当直も務めている」(取材の後、院長は火災で亡くなりました)
――震災後は救急搬送が増えたと聞きました
「震災前は月に1度あるかないかだったが、原発事故後は年間60〜100回という時期もあった。入院機能を備えた病院が近隣にないからだ。運び込まれる多くは除染など復興関連の作業員で、熱中症やハチ刺され、マムシにかまれたなどの理由だ。富岡町立診療所やふたばリカーレ(福島県立大野病院付属ふたば復興診療所)ができて、昼間の回数は減ってきたが、夜間や祝日は私たちが受け入れなくてはいけない状況が続いている」
「作業員の中には看護師や事務職員に対して暴言を吐く人もいて、職員には大きなストレスになっていた。何を尋ねても『うるせー』で、身元を知られたくないのかなと思ったこともある。地元の被災病院協議会で復興庁や県の担当者に繰り返し訴えたせいか、最近は改まりつつある」
■地域で唯一運営を続ける病院なのに県は増床を認めず
――震災までは福島県双葉郡広野町など6町2村)には4つの民間病院と県立病院、厚生病院があったそうですね。
「他の病院は警戒区域の中にあり、今も稼働していない。高野病院は高台にあったため地震津波の直接的な被害は大きくなかった。広野町自主避難を決め、町役場も移転(2012年に復帰)したが、当院は院長の判断でとどまり患者の受け入れを続けた。しかし停電で真っ暗になり貯水槽の水もポンプでくみ上げられなくなった。スタッフがバケツリレーで浴槽に水をためトイレ用に使ったりした。津波で道路がふさがれる中、震災の日に泥まみれで駆けつけてくれたスタッフたちに感謝している」
双葉郡の病床不足は早くから予想できたので、増床を県に要請したが、受け入れられなかった。双葉郡はもともと600床が過剰とされた地域で、高野病院以外の病院は震災後に休止はしていても病床は存在するので認められないと言う。それなら『病床を(稼働していない病院から)貸してもらえないか』と頼んだ。『稼働を始めたら返すから』と言ったのだが、(県内の)他の民間病院から同様の申し出があった場合、県では調整できないので、と断られた」
「(増床を望むのは)お金もうけのためだろうと言われているのを知って悔しい思いをした。確かに民間病院なので黒字になるような経営をしなければいけない。しかしこの地域の医療を支えるためスタッフも院長も骨身を惜しまず働いている。お金もうけのためではない。頑張ってくださいと声をかけてはくれるのだが、具体的な助けにはなってくれない。見放されたと感じたこともある。高野病院が民間病院であり、しかも地域のたったひとつの病院であることが支援しにくい背景にあるらしい」
――たったひとつだからしっかり支援をしなければならないと考えるのが普通のように思えますが、ひとつだけひいきにしていると思われるのを行政は嫌うのでしょう。
「16年の診療報酬改定でも深刻な課題を突きつけられた。(入院中の患者を分類する)医療区分が見直され、これまでより重症度が高くないと区分を下げられてしまう。病院の診療報酬を引き下げて社会的入院を減らすのは、医療費の削減につなげる潮流で日本全体にとって必要なことかもしれない。しかしたくさんの人びとが避難し、仮設住宅で暮らす高齢者も多い被災地で現実に最も必要なのは療養型病床だ。この見方は、地域の医療関係者が共有している。病院が生き残るためには病床を減らし患者も職員も減らすことも選択肢だが、それでは地域の医療ニーズにこたえられない」
――あきらめる方が楽かもしれない。
「万歳する(あきらめる)つもりはないが、このままだと万歳しなければならない状況に追い込まれつつある」
■和解交渉での東電との「信じられないやりとり」
――16年10月に福島県庁で記者会見し東電との和解について説明しましたね。
「職員の確保と定着のために支出した手当や家賃などを東電に請求した。原子力損害賠償紛争解決センター(ADRセンター)を通じて交渉したのだが、なかなかうまくいかなかった。ADRから合意案が出ても東電は資料の追加提出を何度も求めるなどして引き延ばした。賠償金を見込んで予算を組んでいたので、引き延ばされると経営にかかわる。兵糧攻めだ。そんなときに東電からADRを通さない和解を持ちかけられた。和解の内容や金額は口外しない。支払いはこれっきりというのが条件だった。承服できない内容だったので断り、そのことをADRに伝えた結果、最終的にはADRを通しての和解が成立した」
「とても和解と呼びたくない内容だった。しかし『事故後の手当などの支払いは病院の経営判断だ』として要求を退けてきた東電が初めて支払いを認めたので、多くの人に知ってもらいたいと考え、記者会見を開いた」
「信じられないようなやりとりが東電の担当者の間であった。『事故前になかった支出は支払えない』と言うので、冗談交じりに『原発事故が起きて過重な労働が発生したときは手当を支給すると就業規則に書いておけばよかったのですか』と尋ねたところ、『そうだ』という意味のことを口にされた」
原発事故を想定して就業規則をつくっているわけがない。東電にすれば高野病院に支払えば他の要求にもこたえざるを得ないので、できないということだろうが、私たちは事故後の地域医療を支えるために必要な請求をしているのであって、決して過大なことを求めてはいない。東電のトップの人たちは『最後まで賠償します』と言うのだが、なかなか企業の体質は変わらないと感じる」

<取材を終えて> 復興期の地域医療を考える貴重な実例
高野さんは16年暮れに理事長に就任した。震災直後は事務長として病院を切り盛りし、前代未聞の複合災害を乗り切った。当時の様子は「福島原発22キロ 高野病院奮戦記」(東京新聞出版部)に詳しい。
改めて話を聞いてまさに「奮戦」だと思ったのは、事務長と駆けつけた患者家族の2人で、停電の間、100人を超える患者とスタッフに食事を提供したとのエピソードだ。おかゆ程度のものであっても準備と後片付けで寝る間もなかったという。それだけに3月16日朝に東北電力のチームが予備電源を持ってきたばかりか、近くの電柱から電線を引き、電気がついた時の「まぶしさは忘れられない」と言う。17日夜からは職員の家族の人たちが支援に来たという。
避難指示に従わなかったことに加え、高野さんのはっきりした物言いが行政との間にミゾをつくった面もあるだろう。原発事故後も稼働していたのだから「被災」と呼べるのかとの見方もあるかもしれない。そうした無理解が高野病院の今の苦境を生み出している。
県も看護師の雇用に助成するなど支援してはいる。しかし地域の医療計画や診療報酬制度など大きな仕組みに阻まれて、高野病院の奮闘ぶりにふさわしい支援が届いていないように思える。災害の中を生き延びてきた高野病院は災害時とその後の復興期の地域医療の在り方を考える上で貴重な実例だ。努力を無にしてはならない。
高野さんへのインタビューは昨年12月半ばに行った。年末に高野さんの父であり院長の高野英男医師が亡くなった。冥福を祈りたい。