(筆洗)阿智村の満蒙開拓平和記念館 - 東京新聞(2016年11月18日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016111802000134.html
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南信州から旧満州国(現中国東北部)へと「阿智(あち)郷開拓団」が渡ったのは、一九四五年の五月だった。団員は二百十五人。僧侶で教員をしていた山本慈昭(じしょう)さんも開拓地で教職をと説得され、海を渡った。
わずか三カ月後に彼らを待っていたのは、敗戦と逃避行だった。山本さんは妻と幼い二人の子らを守りつつ、その日その日の出来事を書き留めた。
<八月十五日 徒歩にて悪しき道を歩く有様は…鬼にむち打たれて逃げまどうに似たり>。十九日には幅三十メートルほどの川を渡った。<母親の名を呼びながら濁流にのまれる子供、泳ぎを知らず死んでゆく老人…>
そうして生きて帰れた阿智郷開拓団員はわずか十三人。その中に山本さんの妻らの姿はなかった。長野県は全国で最も多くの人を満蒙(まんもう)開拓に送り出したが、三万三千人のうち一万五千人もが命を落としたという。きのう天皇、皇后両陛下が訪問された阿智村満蒙開拓平和記念館は、そんな歴史を語り継ぐ場である。
山本さんの著書『再会』には、彼の叫びに似た言葉がある。<死んだ母親に…すがりついて泣いていたあの子は、そして川を渡れずに置き去りになったあの子は、どうなったのだろうか…>
彼は、中国残留孤児の帰国に道を開き、九〇年に八十八歳で逝去するまで日中間に橋をかけようとし続けた。川を渡れなかった子供らを思っての、目に見えぬ橋だ。