週のはじめに考える 残留婦人なぜ生まれた - 東京新聞(2022年8月28日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/198523

日本が敗戦した七十七年前。夏が終わり、秋へと向かうこの季節に「新たな戦争」が始まった人がいました。「満州国」に置き去りにされた元満蒙開拓団鈴木則子さん=写真=です。救済を求めて民間団体「中国帰国者の会」(東京)を設立し、二〇一一年に八十二歳で他界した鈴木さんは、戦後三十年以上も祖国日本に帰れなかった「残留婦人」の一人でした。

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残留婦人とはどんな人たちなのか−。当時の大日本帝国は一九三二年、「王道楽土」「五族協和」などを掲げ、中国東北部満州国を建国。開拓団として日本から百万戸の農民を移住させる計画を策定し、昭和恐慌で疲弊した農村などから約二十七万人が海を渡りました。このときに移住した人の一部が残留婦人となったのです。

東京で代々青物問屋を営んでいた鈴木さん一家も四三年春、当時のソ連国境に近い興安南省哈拉黒(ハラヘイ)に移ります。

女学校に通い、医師を夢見ていた十四歳の鈴木さんの人生は一転し、開拓団の子らが通う国民学校の代用教員になりました。

駐留する関東軍の兵たん確保も使命とされた生活でしたが、冬は氷点下三〇度になる酷寒の地で父母は病死します。そして、鈴木さんが十六歳の四五年八月九日、ソ連が参戦します。

関東軍はすでに逃げだし、開拓団の男性も徴兵され、残るのは女性と子どもと高齢者だけ。自決する人、わが子を殺す人らで惨状を極め、約六百人いた鈴木さんの開拓団はほぼ全滅したそうです。

◆生きるため現地で結婚
鈴木さんはソ連兵やモンゴル兵、中国人から襲撃されながら、傷を手当てし、服や食料をくれる人に助けられ、敗戦から一年後、中国人の家に引き取られました。しかし、それは異国に残された若い女性にはほぼ、「妻」になることを意味します。鈴木さんも二十歳で中国人男性と結婚しました。

夫はいい人でした。五人の子に恵まれ、貧しくても家庭円満でした。でも生きるための結婚には、心を痛めたことでしょう。

開拓団には、敗戦時に女性たちがレイプされ、ソ連兵の襲撃から団を守るために、若い女性が兵士の性の相手に差し出されたとの証言も残されています。

戦場の女性は弾よけにされ、その性や尊厳が傷つけられる。戦争が奪うのは兵士の命だけではなかったのです。

中国語を必死で覚え、日本語を忘れまいと努めた鈴木さんが日本に帰国したのは敗戦から三十三年後の七八年。ここまで遅れたのは、自国民が中国に残ることを知りながら日本政府が放置し、積極的に帰国させなかったためです。

五九年に成立した「未帰還者に関する特別措置法」が決定的でした。居所不明者は戦時死亡宣告をして戸籍を抹消。敗戦時に十三歳以上で中国人と結婚した「残留婦人」を「自分の意思で中国に残った人」とみなしていたのです。

そのことを明らかにしたのが鈴木さんが帰国した二十三年後の二〇〇一年、二人の残留婦人とともに国に損害賠償を求めて提起した訴訟でした。

◆国は保護せず差別扱い
開拓団を危険な地域に送った上に保護せず、帰国させなかった責任が問われた国側は、旧厚生省が六七年に作成した残留邦人の「資料通報名票」という文書を法廷に提出。そこには鈴木さんが知らないうちに「帰国の意思なし」と処理された記載があったのです。

鈴木さんに限らず、国策として大陸に渡った女性たちは二度、三度と国に棄(す)てられたのです。

文書の作成経緯は追及しても分からずじまいで、敗訴に終わりましたが、代理人を務めた石井小夜子弁護士は「中国人と国際結婚した女性はもう日本人ではないから構わなくてもいいという、差別的なまなざしがあったのだと思う」と振り返ります。

日中両国が国交を正常化した七二年以降の帰国者約六千七百人のうち、三分の二を残留婦人が占めています。この事実は、国が誰に冷たかったかを示しています。

国交正常化後も、残留婦人の帰国は、国が課した親族による身元引き受けが障壁となって遅れました。日本に帰れず中国で亡くなった残留婦人も少なくありません。

戦争は、終わった後も人々に新たな「戦い」を呼び込みます。

戦地で戦ったり、シベリアに抑留された兵士だけでなく、本土空襲、広島・長崎の原爆、沖縄地上戦など戦争の爪痕は、心や体の傷となり、何十年も、何世代にもわたって人を苦しめます。そのことは何度でも思い起こさねばならない。そう心に刻む夏の終わりです。

関連)
救済を求めて民間団体「中国帰国者の会」(東京)

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