溶けた靴底、必死で逃げた 東京大空襲体験した江東の栗原さんが手記:東京 - 東京新聞(2016年3月7日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201603/CK2016030702000175.html
http://megalodon.jp/2016-0307-0958-48/www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201603/CK2016030702000175.html

東京大空襲を経験した江東区海辺の栗原育子さん(89)が、手記「戦争反対」をつづった。手記の中には、いとこで、「反戦」を訴え続け昨年4月に亡くなった俳優の愛川欽也さん=享年(80)=とのやりとりもある。 (木原育子)
手記は、B5サイズで四十九ページ。「東京大空襲」「戦後」「おかしい時代」「戦争反対」の四章からなる。戦後七十年の報道も多かった昨年、書き始めた。
栗原さんは埼玉県権現堂川(ごんげんどうがわ)村(現幸手(さって)市)出身。疎開してきた愛川さんらと暮らした。ある日、神田の親戚に野菜を届けるため、一人で上京することに。到着した一九四五年三月十日、東京大空襲に遭った。
シューと弾が夜を切る不気味な響きとともに焼夷(しょうい)弾が降った。栗原さんが履いていたゴム製の靴底は熱で溶け、はだし同然で逃げた。
浅草から隅田川を挟んだ向島方面へ渡ろうと、唯一残った鋼鉄の言問橋(ことといばし)の上は死体で埋まっていた。「必死だった。死体を見ても何も思わなくなっていた」。鉄の熱さと人間の冷たさ。その時の足裏の感触は今も残る。
空襲から四日目、愛川さんや家族が待つ故郷にたどり着いた。玄関先で寝ずに心配した母親から何度もほほをたたかれた。その時、栗原さん以上に泣いて止めに入ったのが、当時十一歳の愛川さん。「かあや、怒んないで。怒んないで」。皆で肩を寄せ合い、命あった奇跡を確かめた。
その後も、足のやけどの治療で病院に向かう時は、いつも愛川さんがリヤカーの後ろを押してくれた。「幼いながらに、人の痛みの分かる子だった」と栗原さんが振り返る。
戦後、愛川さんは俳優を目指し、下積み生活を送った。栗原さんは結婚し、互いに疎遠になっていたが、ある時、愛川さんがラジオで自身の本名を告げ「姉ちゃんに会いたい」と呼び掛けた。二十年ぶりに再会し、交流を続けた。
愛川さんはいつでも、スーツの胸ポケットに小冊子「日本国憲法」を入れていた芸能人としても知られる。栗原さんとの会話も戦争や疎開中の出来事に及ぶことも多かった。
手記はこう締めくくった。「子どもや孫にあのような思いは絶対にさせたくない。絶対に戦争反対」。愛川さんの思いと共にあるような言葉だった。手記は東京大空襲・戦災資料センター(江東区)に寄贈する予定だ。