(筆洗)津島さんがのこした作品を読めば、そんな井戸をのぞけるはずだ - 東京新聞(2016年2月20日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016022002000183.html
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作家の津島佑子さんは、いまどきの東京では珍しい井戸のある家に住んでいたという。母の美知子さんが井戸に執着し続けたからだ。
井戸さえあれば、土の底から湧き出る水が、失った時間を取り戻してくれる。そこで母は、亡き人々の声に耳を傾けていたのではないか。そんな想像をしつつ、津島さんは時折、井戸の水に手を浸していたという(書簡集『山のある家 井戸のある家』)
津島さんには、十五歳で逝ったダウン症の兄がいた。言葉を十分に操れなかった兄といるとき、「世界は魔法に充ち満ちているように」感じられたという。
言葉や時間、場所の感覚に縛られないからこそ見える世界を示してくれた兄。家族の中では、暗くて重い「秘密」だった父・太宰治。早くに逝ってしまった息子…。津島さんにとって井戸は、生と死に思いをはせ、言葉をくみ出すための特別な場所だったのだろう。
小説の象徴的な舞台装置として井戸を繰り返し使った村上春樹さんは「井戸が示しているのは、たとえとても深い穴の中に落ちてしまったとしても、全力を振り絞って臨めば堅い壁を通り抜け、再び光のもとに帰れるということ」と語っている。小説を書くこと自体、「井戸」を掘り進んで壁を越え、ほかの人とつながることだと。
おととい六十八歳で逝った津島さんがのこした作品を読めば、そんな井戸をのぞけるはずだ。

山のある家 井戸のある家 東京ソウル往復書簡

山のある家 井戸のある家 東京ソウル往復書簡