(筆洗)夏の空には何かがある、いぢらしく思はせる何かがある、焦げて図太い向日葵(ひまわり)が田舎の駅には咲いてゐる - 東京新聞(2015年7月30日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015073002000153.html
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<夏の空には何かがある、いぢらしく思はせる何かがある、焦げて図太い向日葵(ひまわり)が田舎の駅には咲いてゐる>。中原中也の「夏の日の歌」。向日葵の季節である。
夏の青空と向日葵の織りなす光景に不吉な影を見る人は少ないか。健康、喜び、陽気。その花が連想させるイメージはまぶしいほどに明るい。<ひまわりの黄は、寛容な色彩。その色彩の輪のなかに、自然だけが何とない喜びをただよわせている>。林芙美子の「放浪記」だが、向日葵の陽気さは、色の中でも飛びきり明度の高い、黄色のおかげなのだろう。
黄色には滑稽さもある。バナナの皮が黄色でなければ、それで滑って転ぶ紳士の様子もさほどには笑えなかったかもしれぬ。「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」。カレーライス。子どもの帽子。黄色に悪意を感じることができぬ。
その黄色は災いの色だった。長崎原爆資料館が一九四五年に投下された原子爆弾「ファットマン」の模型を黄色に塗り直した。以前は爆弾のイメージで深い緑色で塗っていたが、実物は黄色だった。
「ファットマン」が黄色だった理由は、視認性が高く、上空から追いやすいためだった。狙い通りに落ちたか。冷酷の黄色である。
黄色い「爆弾」。歴史を知らなければ、無邪気な玩具を思わせる。塗り直したのは正しい。向日葵の黄色と原爆。結び付かぬイメージが戦争の恐怖を際立たせる。