語り継ぐ(上)対馬丸撃沈 海にひしめく泣き叫ぶ子ども:埼玉 - 東京新聞(2015年7月2日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150702/CK2015070202000168.html
http://megalodon.jp/2015-0702-1053-49/www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20150702/CK2015070202000168.html

◆仲田 清一郎さん(79)
太平洋戦争の戦況の悪化が進む一九四四年八月二十一日。戦場になる可能性が高まっていた沖縄・那覇から長崎県に向け、疎開児童らを乗せた「対馬丸」が那覇港を出港した。親と離れる寂しさを抱えつつも「ヤマト(本土)に行ったら雪が見られる」と心を弾ませていた子どもたちの運命は、米軍の潜水艇が発射した魚雷によって一変する。
「ドーン!」。出港から丸一日が過ぎた二十二日午後十時ごろ、船倉で眠っていた仲田清一郎さん(79)=春日部市=は、船体を揺るがす衝撃音で目を覚ました。竹を組んで作った寝床から跳ね起きると、階段を上って甲板へ。救命胴衣を着たままだったので、すぐに海に飛び込んだ。
仲田さんは当時八歳で、天妃(てんぴ)国民学校三年生だった。「母ちゃーん」「せんせーい!」。海上には泣き叫ぶ子どもたちがひしめいていた。
学校の先生が「船は沈むときに渦を巻く。すぐに離れるように」と話していたのを思い出した。海面を漂う丸太につかまり、必死の思いで対馬丸から離れた。船が沈没したことには気付かなかった。喧噪(けんそう)はなくなり、辺りは暗闇に包まれた。
一夜明けた翌二十三日、「あそこにいるぞ」という声が耳に届いた。救助に来た漁船の乗組員だ。夕暮れだったのか、疲労のせいだろうか。視界が暗かったことだけは覚えている。仲田さんは海から引き上げられたものの、ぴくりとも動かなかった。死んでいると思われて海に投げ込まれたが、ようやく体が動いて救助された。「ミジ、ミジ」。学校では禁じられている沖縄の言葉で水を頼んだ。意識がもうろうとする中、漁船の煙突にぶつかった。痛みを感じて「生きてるんだ」と気付いた。
鹿児島県内の病院に入院した後、宮崎、長崎県内に疎開した。生まれ育った沖縄の離島・伊是名(いぜな)島に戻ったのは、終戦後の四六年末ごろだ。二年ぶりに再会した母のカミさんは「清ちゃん、清ちゃん」と抱き締めて離さなかった。カミさんは一時は仲田さんが亡くなったと思い込み、心を病んだこともあったという。
対馬丸への乗船が決まった当初は「憧れのヤマトに住める」と喜んだ仲田さんは「はなむけに初めて革靴を買ってもらい、大いにはしゃいだ」と振り返る。しかし、米軍に撃沈されて海を漂流することになり、八歳ながら死を覚悟した。「戦争の最中に、相手が戦闘員か非戦闘員かを区別して戦うことはできない」と痛感する。
対馬丸の沈没直後は軍が周辺の島にかん口令を敷き、乗船者の救助が遅れたことを後に知った。「戦争では人命は軽視され、結局、無辜(むこ)の民が殺傷されてしまう。だから平和が一番なんです」 (堀祐太郎)
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戦後七十年となる八月十五日まで、あと一カ月余り。一月に連載した企画「語り継ぐ」に引き続き、県内外で戦争を体験した県民の証言を聞いた。  

対馬丸 1944年7月のサイパン島陥落によって沖縄県が戦場となる可能性が生じたため、同月中旬から沖縄の子どもやお年寄りの疎開が始まった。対馬丸日本郵船所有の貨物船で、米軍に撃沈された唯一の学童疎開船。乗船者1788人のうち、少なくとも1485人が死亡した。