9条の碑、沖縄に次々建立 「命どぅ宝」戦争体験者刻む - 朝日新聞(2018年3月30日)

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沖縄本島北部にある人口3千人あまりの大宜味(おおぎみ)村の役場敷地内に「憲法9条の碑」が建った。改憲論議が盛んになる中、碑には戦時中、米軍に沈められた疎開船から生き残った女性や、戦争の悲惨さを知る村長らの強い思いが込められている。
碑は高さ約2メートル。9条の1、2項全文が刻まれている。その上に「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)という文字を、平和の象徴のハトが9羽で囲むデザイン。昨年12月26日に除幕された。
建立に尽力した一人が、元教諭で村在住の平良啓子さん(83)だ。
戦時中の1944年8月、沖縄から本土に向かう疎開船「対馬丸」に乗船。約1800人が乗っていたが、米潜水艦に撃沈された。対馬丸記念館那覇市)によると、学童784人を含む1400人以上が亡くなった。国民学校4年生だった平良さんは、6日間漂流し、無人島に流れ着いて助かった。
こうした経験から「戦争は絶対に許されない」という信念がある。「大宜味村憲法九条を守る会」の世話人代表も務める。
沖縄県では85年以降、「9条の碑」が各地ででき、平良さんも「村に欲しいなあ」と思っていた。安倍内閣は、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更や、安全保障法制の制定をした。首相は昨年5月の憲法記念日に、自衛隊の存在を書き込む9条改憲案を提起した。
「若者を戦地に送り、人を殺し、殺されることになる。改憲なんてもってのほか」。平良さんたちは4カ月後、会のメンバーや村長、村議、青年会の代表者ら14人で建立の実行委員会を立ち上げた。
寄付を募ったところ、3カ月で県内外から約150万円が集まった。平良さんは「私は友だちをいっぱい亡くしている。黙っていたら、おかしな世の中になるよ」と話す。
石碑裏に「子孫への贈り物」
宮城功光(のりみつ)村長(67)は戦後70年だった2015年6月の村議会定例会で、建立について問われ「9条の理念を後世に残すためにも進めていく」と答弁。議会側もこの定例会で、安倍政権に9条を守るよう求める決議を全会一致で可決した。
その後の住民アンケートで反対意見が一部あった一方、平良さんたちからの熱心な要請もあり、自身と平良さんが建立委の共同代表に就き、石碑は村へ譲渡という形にした。
村議を7期務め議長も経験した宮城村長。「一番大事なのは武力行使をしないことだ」と言う。
村では戦時中、日本兵による避難者の虐殺事件があった。「友軍による虐殺の話は親から聞かされる。悲惨さを知っている住民は多いだろう。戦後、戦争に巻き込まれることなくやってこられたのは9条があったからだと思う。碑の建立は意義がある」
石碑の裏には、こんな文章も刻まれている。
《村民は、戦争につながる一切を認めず、平和な国際社会を築くことに誇りをもち暮らしてきた。「命どぅ宝」を再確認し不戦への誓いを新たに、子孫への贈り物として、九条の碑を建立する。(一部略)》
沖縄7カ所目、本土には9カ所
各地の9条の碑を見て回っているという島根大名誉教授の渡辺貞幸さん(72)や朝日新聞が調べたところ、少なくとも本土では長野、茨城、岐阜、静岡、岡山、広島に各1カ所、石川県に3カ所の計9カ所ある。沖縄県には那覇市など3市2町1村にあり、大宜味村が7カ所目。
日米両軍と民間人らで死者約20万人とされる沖縄戦での地上戦、72年の本土復帰まで続いた米軍統治、そして今なお在日米軍専用施設の7割が集中する沖縄。渡辺さんは「碑は本土では個人の土地が多いが、沖縄では公的な場所にある。沖縄と本土の人たちの9条への受け止め方がずいぶん違うなと感じる」と話す。(石田一光)