『12 Angry Men(十二人の怒れる男)』(1957年作品/米国)を観て -子どもと法21通信 2009年2月号(通巻97号)

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米英語で考える

映画『十二人の怒れる男』=『12 Angry Men』は、裁判員制度が導入されるいま、アメリ陪審制度と比較しながら制度の理解を深めるにはもってこいだ。
TSUTAYA”に行っても貸出し中が多く、関心をもって観られているのがわかる。米英語の不得手な私は字幕でしか筋を追えない、だから日本語と米英語の言葉の差がいつも気になってしまう。日本語の字幕をそのまま鵜呑みにし、同じ意味・語感で考えると、どうも話の中身が呑み込めないことがでてくる。

guilty と not guilty

陪審員12 人の1 回目の投票が開かれる、字幕に「有罪」「有罪」…8 番目に「無罪」と出て場面が一瞬にして緊張する。スクリーンには「guilty」「guilty」…「not guilty」と映し出される。そうか有罪=guilty、無罪=notguilty なのかと頭を回し、たしかに陪審制度は有罪・無罪を決めるものと納得してしまう。
しかし映画の流れを追うと、陪審員の書くguilty・not guilty は、日本語の持つ「有罪・無罪」ほどの断定的な響きはないと思われる。「わたしにはguilty またはnot guilty と思う・考えたい」くらいの感じ、あくまでも陪審員の主観・心の動きの現れなのである。言葉を換えれば、not guilty とは「guilty とするには疑問だ、疑問が残る」ではないか。またguiltyとnot guilty は、白か(or)黒かの関係ではなく、その疑問がなくならない限りわたしはnotguilty だということであることも分かる。このように日本語と米英語の言葉のギャップをよく弁えて映画を観ることが求められるのである。

doubt から reasonable doubt へ

No8 が言う「guilty とするには疑問が残る」の「疑問」はなんなのか。この「疑問」こそが映画のkey word だと思う。疑問は米英語でdoubt、辞書には「理由のない疑い」とある。映画の最初のシーン、No8 の思慮深いというか辛気臭い表情は、どうやら理由のない疑いにかられたdoubt 状態であったらしい。少年を有罪とするには、釈然としないdoubt を感じていたのだろう。しかし思い過ごしかもしれない、そこで自分抜きの再投票を願う、結果もうひとりのnot guilty 者・陪審員No9 が現れ、No8 のdoubt=理由なき疑問はreasonable doubt、すなわち合理的な疑問へと確信していく。ここで重要なのは、少年が親父を殺したかどうかの「疑問」ではなく、検察官の言っていることが正しいかどうかの「合理的疑問」ということだ。映画は陪審員No8 のnot guilty から始まり、陪審員No4 のnot guilty で終わる。彼ら12 人がそれこそangry men となり自分を曝け出してまで口論激高したのは、この「reasonable doubtか否か」にあるといえる。No8 のただのdoubtが合理的doubt となり、陪審員一人ひとりが自分のものとし、最後にNo4が確信して全員がnotguilty で一致するのである。ここに至るまでの
12 人の一言一言は緻密で重く意味深い。脚本はニューヨークっ子のレジナルド・ローズ、主演のヘンリー・フォンダ(No8)との共同制作者でもある。

benefit of the doubt

刑事司法の原則は、「benefit of the doubt=疑わしきは被告人の利益に=疑わしきは罰せず」と裁判員制度勉強会で弁護士に教わった。また事案の真相とは、「真犯人の発見ではなく無罪の発見」と、そして裁判員となったとき、「判断がつかないことは無罪 ⇒ 判断がつかないと言う、分からないことは質問する」と裁判現場での心構えも教わった。この『12 AngryMen』を観て、なるほどこういうことかと、腹に落とすことができた。最高裁判所が一般市民むけに冊子・裁判制度ナビゲーションを出しているが、刑事司法の原則等は載せていない。これできちんとやってくれと言われても困るだけだ。『十二人の怒れる男』の解説書を出した方が、よほど国民が理解納得すると思うが、どうか。