週のはじめに考える 沖縄は憲法の埒外か - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016051502000150.html
http://megalodon.jp/2016-0515-1000-59/www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016051502000150.html

沖縄県はきょう本土復帰から四十四年の記念日です。県民を巻き込んだ凄惨(せいさん)な地上戦を経て苛烈な米軍統治へ。今も続く苦難の歴史を振り返ります。
敗戦から四カ月後の一九四五(昭和二十)年十二月、「改正衆議院議員選挙法」が成立し、女性の国政参加が認められました。翌四六(同二十一)年四月には戦後初の衆院選が行われ、日本初の女性議員三十九人が誕生します。
今年は日本で女性が参政権を行使してから七十年の節目でもあります。日本の歴史に新たな一歩を記す一方、このとき国政参加の道が断たれた地域がありました。

◆国政への参政権失う
住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、米軍の支配下に置かれた沖縄県と、戦争末期に参戦した旧ソ連軍が不法に占拠した北方四島歯舞群島色丹島国後島択捉島)です。
改正法が付則で、沖縄県北方四島については、勅令で定めるまでの間、選挙を行わないと決めていたからです。
当然、沖縄県側は反発します。県選出の漢那憲和(かんなけんわ)衆院議員は改正法案を審議する委員会で、県民が先の大戦中、地上戦で多大な犠牲を強いられたことに言及して、こう指摘します。
沖縄県民といたしましても、帝国議会における県民の代表を失うことは、その福利擁護の上からも、また帝国臣民としての誇りと感情の上からも、まことに言語に絶する痛痕事であります」
しかし、沖縄側の訴えもむなしく法律は成立し、一二(明治四十五)年から選出されていた県選出衆院議員は途絶えてしまいます。
五二(昭和二十七)年四月二十八日に発効したサンフランシスコ平和条約により、沖縄県が正式に米国の施政権下に置かれる前に、沖縄県民は日本の国政から切り離されてしまったのです。

◆苛烈な米軍統治下に
戦後初の衆院選は、日本の未来を切り開く新憲法を審議する議員を選ぶ選挙でもありましたが、その「制憲議会」に沖縄県選出議員の姿はありませんでした。
国民主権、平和主義、基本的人権の尊重。明治憲法に代わる新しい日本国憲法の理念、基本原理は軍国主義によって戦禍を強いられた当時の日本国民にとって輝かしいものだったに違いありません。
ただ沖縄県日本国憲法の枠外に置かれ、日本の独立回復後も、苛烈な米軍統治下に置かれます。
米軍は「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強権的手法で、民有地を強制収用し、軍事基地を次々と建設、拡張しました。県民は米軍の事故や米兵らの事件・事故の被害にも苦しめられます。
県民の「自治」組織である琉球政府の上には、現地軍司令官の軍事権限に加えて行政、司法、立法の三権を有する琉球列島統治の最高責任者として高等弁務官が君臨しました。米陸軍軍人だったポール・キャラウェイ高等弁務官は「(沖縄の)自治は神話であり、存在しない」とまで言い放ちます。
人権無視の米軍統治は憲法の理念には程遠い世界でした。沖縄県民にとって七二(同四十七)年五月十五日の本土復帰は「日本国憲法への復帰」でもあったのです。
しかし、沖縄県では憲法の理念が完全に実現したとは、いまだに言えません。「憲法の埒(らち)外」「憲法番外地」とも指摘されます。
沖縄県には在日米軍専用施設の約74%が集中し、さらに普天間飛行場宜野湾市)の返還と引き換えに名護市辺野古沿岸部に新しい基地を造ろうとしています。有事には出撃拠点となる基地の過剰な存在は憲法の平和主義や法の下の平等と相いれません。
県内に多くの米軍基地がある限り、爆音被害や事故、事件はなくならない。憲法よりも米兵らの法的特権を認めた日米地位協定が優先され、県民の基本的人権は軽んじられているのが現状です。
県民が衆院選や県知事選、名護市長選など選挙を通じて、辺野古移設に反対する民意を繰り返し表明しても、日本政府は「唯一の解決策」との立場を変えようとしない。沖縄では国民主権さえ空洞化を余儀なくされているのです。

◆改正より理念の実現
安倍晋三首相は夏の参院選で勝利し、自民党結党以来の党是である憲法の自主的改正に道を開きたいとの意欲を隠そうとしません。
国民から改正論が澎湃(ほうはい)と沸き上がる状況ならまだしも、世論調査で反対が半数を超す状況で改正に突き進むのなら強引です。憲法擁護義務を課せられた立場なら、憲法理念が実現されていない状況の解消が先決ではないのか。
沖縄県民の民意や基本的人権が尊重され、米軍基地負担も劇的に軽減される。沖縄で憲法の理念が実現すれば、国民が憲法で権力を律する立憲主義が、日本でも揺るぎないものになるはずです。

「基地のない沖縄へ 踏ん張って戦う」 辺野古抗議で拘束 目取真さんが講演 - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051502000133.html
http://megalodon.jp/2016-0515-0959-54/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201605/CK2016051502000133.html

米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古(へのこ)移設への抗議活動中に拘束、逮捕された沖縄県在住の芥川賞作家、目取真(めどるま)俊さん(55)が十四日夜、東京都内で講演した。目取真さんは「今後も拘束されることがあるかもしれないが、組織的な支援態勢をつくり、権力の弾圧をはね返す強さが必要だ」と訴えた。
目取真さんは、日本の米軍基地の多くが沖縄にある現状について「沖縄が基地を誘致したわけではない。沖縄は基地のおかげで潤っているというような言説があるが現状は違う。基地がない方が沖縄の観光のためになる」と語った。
目取真さんは四月一日、米軍キャンプ・シュワブ周辺の立ち入り禁止区域に許可なく入ったとして、米軍に約八時間拘束された。その後、中城海上保安部に逮捕されたが、那覇地検は翌日、処分保留で釈放。目取真さんは今月十二日、拘束は適正な手続きを取っておらず違法だとして、国に慰謝料など約六十万円を求め、那覇地裁に提訴した。
講演で目取真さんは「拘束中に弁護士との接見を何度も求めたが聞き入れられなかった。治外法権の怖さを、身をもって体験した」と振り返った。「努力を怠ればもっと悪い状況は着実にやって来る。踏ん張って戦わないといけない」と決意を新たにした。
講演会を企画したのは、精神科医香山リカさんと作家の中沢けいさんらで、講演後に「路上で抗議する表現者の会」を設立。香山さんは「不当に逮捕された表現者を支えるネットワークをつくりたい。萎縮ムードに一矢報い、表現者が政治的発言を自由にできるようにするのが私たちのゴールだ」と述べた。

(筆洗)「公私混同」という悲しき毒 - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016051502000122.html
http://megalodon.jp/2016-0515-0951-32/www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016051502000122.html

高野聖」などの作家、泉鏡花は「豆腐」を「豆府」と書いていたそうだ。もちろん、明治の文豪のこと、誤記や勘違いではない。
口に入れる物に対してかなり神経質な性質で、魚の刺し身などは絶対に食べなかった。豆腐もグラグラと煮つめないと口にできなかったほどでたとえ漢字であろうと「腐」の字が許せなかったという。
それほど警戒していたにもかかわらず、ある会合で酔っぱらってしまい、その勢いでタコの刺し身を口にしてしまったことがある。翌朝、友人に「タコを食べていましたよ」と教えられた途端、真っ青になり、急におなかが痛くなったと帰ってしまったそうだ。
天ぷら、イタリア料理に回転ずし。口に入れた時は平気だったのだろうが、「それは間違っていますよ」と批判されて、今になって青くなっている。おなかに激痛が走っている。東京都の舛添要一知事である。政治活動と確認できない飲食費、家族旅行で宿泊したホテル代を政治資金で支払っていた。
一部を返金し、わびたとしても、それを食べた事実を世間は忘れまい。口にしたのは政治家であるならば、どんなに微量であろうとはねつけ、絶えず警戒しなければならなかった「公私混同」という悲しき毒である。
高額の出張費用、公用車による別荘通いもある。都知事の「知」を泉下の文豪が「恥」と書き直さないかを心配すべきである。

戦時中、壁に思い記す 2年前解体 法政二中・高の「時計塔校舎」:神奈川 - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016051502000147.html
http://megalodon.jp/2016-0515-0952-20/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016051502000147.html

法政大第二中・高校(川崎市中原区)の旧時計塔校舎の壁に、誰かが戦時中に書いたとみられる言葉があった。同市高津区の元高校教諭長坂伝八さん(70)らが調べ、筆者は同市中原区の故西村一明さんと判明。時計塔校舎は二〇一四年に取り壊され、壁書の現物は残っていないが、長坂さんは、戦争の恐ろしさと平和の尊さを後世に伝えるため、この言葉を紹介していくという。 (山本哲正)
時計塔校舎は一九三六年に建てられた。鉄骨コンクリート造りで、高さ約三十五メートル。内壁にチョークで書いたとみられる言葉があり、一部が欠けているが「皇国の為には何も惜しまず 身は砲弾に砕け るとも」と読めた。「西村 明」という署名もあった。
法政二高で社会科を教えていた長坂さんらは「平和を物語る建築」として、二〇一二年二月から時計塔校舎の保存運動を展開。川崎市も「景観重要建造物の指定方針を満たしている」と評価したが、同校の施設整備の一環で解体された。
     ■
「皇国の為には〜」という壁書は字が薄く、建物の上の方にあったため、長坂さんも一四年一月、保存を願う協力者からの知らせでその存在を初めて知った。「西村明」の名前を法政大の名簿などで調べたが見つからず、一五年夏、地元のイベントで情報提供を求めると、数人から「中原区の西村さんなら知っている」と教えられた。同年九月、中原区内を訪ね歩き、レストラン経営の西村英雄さん(50)に会って切り出すと「それはおやじ。名前は一明です」と言われた。
英雄さんによると、一明さんは一九二七年二月九日生まれ。出征せず、市立川崎高校の事務長などを務め、定年退職後は趣味が高じて古美術商を開いた。よく昔話をし「在学中、時計塔に自分の名前と落書きをした」と話していたという。二〇一四年、八十七歳の誕生日に亡くなった。
英雄さんは、長坂さんから壁書の写真を見せられたとき、一明さんが人生のはかなさを桜に重ねていたので、「砕け る」は「砕け散る」だとピンときたという。これで空白だった文字が「一」と「散」だと突き止められた。
英雄さんは「父は『戦争に行って、お国のため、天皇陛下のため、万歳と死んでいくのが一番と言われていた。そう教育されていた』と話していました」。また、「『友人はどんどん戦地に行くのに、何で俺は…』と両親に不満をこぼしていたそうです」。   
長坂さんは英雄さんと相談し、筆者の存在を公表することにした。「壁書の写真を見てから一年半後に筆者が見つかる奇跡は想像していなかった」と喜びつつも、時計塔校舎が失われたことを惜しむ。法政大第二中・高校によると、壁書があることは知っていたが、解体により現物はないという。
長坂さんは「時計塔校舎を守ろうと活動した。壁書はその支えだった」と話し、機会をとらえて壁書の存在を広く伝えていく考えだ。

絵本で平和考えよう 横浜のママ、原画作品展企画「気軽にきて」:神奈川 - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016051502000145.html
http://megalodon.jp/2016-0515-0954-16/www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016051502000145.html

原ゆたかさんや、かこさとしさんら絵本作家63人が描いた原画を展示する「絵描きたちのメッセージ展」が17〜22日の6日間、横浜市内で開かれる。反戦・平和をテーマに昨年から都内を中心に開かれている作品展で、県内では初めて。主催する「虹色カフェよこはま」(同市西区)の湯浅佳子代表(44)も「みんなで平和を考える場になれば」と楽しみにしている。 (梅野光春)
湯浅さんが開催するきっかけになったのは、インターネットだった。「お母さんと子どもで、いのちや政治を考える方法はないかな」。一月末、そんな気持ちでネットを見ていたら「子どもの本・九条の会」(東京都)に所属する絵本作家による作品展を知った。
資金はネット上でお金を募るクラウドファンディングを活用。知人のイラストレーターが制作を引き受けてくれたチラシは保育所で配ったり、スーパーの掲示板に貼ったり。既に一万枚を配り終えた。
こうして準備そのものは着々と進んだのだが−。
さかのぼれば昨夏。「まさか自分が生きているときに、こんな法律ができるとは」。安全保障関連法案の審議が進むのをみて、湯浅さんは反対運動に参加し始めた。いくつかの集会に足を運んだが、どこに行っても同じ顔触れに会う。
「もっと、議論の裾野を広げたい」と思った湯浅さんは昨年十月、育児中の女性四人で「虹色カフェよこはま」をつくった。カフェと名乗っても店はない。誰でも入りやすいようにという気持ちを込めた。
さっそく十一月に絵本の読み聞かせ会を開いた。「でも参加者は身内だけ。実質的にはゼロだった」と湯浅さん。散々なスタートだったが、めげずに月一〜三回のペースで料理教室などを開き、三十人ほどが集まることもあった。
それでも、憲法や平和の話を始めると、スッと引いてしまう人が多く、考えを伝えられない。もどかしさを抱えているとき、この作品展を見つけたのだった。湯浅さんは「絵本なら、ママ友同士で気軽にきてもらえそう」と期待している。
     ◇
展示は▽十七〜二十日=エリスマン邸(横浜市中区元町一)▽二十一、二十二日=横浜YWCAギャラリー(同市中区山下町)で。入場無料。YWCAギャラリーでは▽二十一日 フェリス女学院大の常岡せつ子教授を招き「親子わくわく憲法教室〜どんな未来を描こう?」(要予約、参加費千五百円)▽二十二日 絵本作家ひろかわさえこさんの講演会「子どもたちに、のこすもの」(要予約、五百円)−も開く。
問い合わせは、虹色カフェよこはまの松崎雅美さん=電090(2050)6672=へ。

苦しい戦争体験、未来に伝える 宗左近さんの生涯 市川で企画展:千葉 - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201605/CK2016051502000155.html
http://megalodon.jp/2016-0515-0956-58/www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201605/CK2016051502000155.html

詩人、美術評論家市川市名誉市民の宗左近(そうさこん)さん(本名・古賀照一(てるいち)、一九一九〜二〇〇六年)の生涯をたどる企画展「詩人・宗左近展−わたしの罪と罰」が市川市文学ミュージアム(鬼高一)で開かれている。ついのすみかとなった市川で没後十年の節目を、ゆかりの資料約百点などでたどる。六月二十六日まで。 (服部利崇)
宗さんの創作の原点は、大切な人を見殺しにしたという戦争体験だ。一九四五年五月の東京大空襲で、炎に包まれた母を目にしながら「置き去りにした」(小説『炎の花』)。また徴兵忌避で自身は戦死を免れる一方、同じく戦争を認めない学友四人は戦死した。
学芸員の柳沢真美子さん(25)は「加害者意識に苦しみながら生きた。つらかった戦時中の思いを、未来の人たちに伝えていくことを使命とした」と語る。
企画展は二部からなる。一部の「わたしの罪と罰」は、文学・哲学との出会いから長編詩「炎(も)える母」に至るまでを紹介する。終戦の年の日記(複製)には「青い炎の母よ、ああ私の海の水底に」などの表現もある。柳沢さんは「『炎える母』の原型ともとれる表現」とみる。空襲から母と逃げ回った経路を示す地図もパネルにした。
二部「愛と祈り」は戦争への思い、縄文文化への傾倒、七八年から暮らした市川での活動を振り返る。柳沢さんは「死んだ母や学友への思いを、はるか昔に滅ぼされた縄文の人々との声と響き合わせた」とみる。
戦死した大切な人を語り継ぐ決意を記したとみられる詞「語部(かたりべ)」(詩集『お化け』所収)はパネルで紹介されている(詞は原文のママ)。
すでに語部はこの世にいない/だから物語がなくてはならぬ/はじめのはじめに殺戮(さつりく)があった/終りの終りに殺戮があるに違いない
宗さんが市川での生活の痕跡として、文房具やジャケット、ズボン、久留米絣(がすり)などの身の回り品も並べた。
教え子で晩年まで親交のあった編集者の戸矢晃一さん(55)は「『罪と罰』は宗さんにとって大きなテーマであり、詞や生き方の核心でもある」と語る。
休館日は毎月曜日と五月三十一日。一般三百円、六十五歳以上二百四十円、高大生百五十円、中学生以下無料。問い合わせは、同ミュージアム=電047(320)3334=へ。

「軍都」宇都宮、痕跡を訪ねて 「風化させない」…市民団体が21日:栃木 - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201605/CK2016051502000166.html
http://megalodon.jp/2016-0515-0957-23/www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201605/CK2016051502000166.html

宇都宮市の戦争の痕跡を訪ねるバスツアー「ピースバス」が、今年も21日に開かれる。戦争を風化させないという思いで、市民団体「ピースうつのみや」が1987年から年1〜2回ずつ続け、今回で32回目を迎えた。若者向けに分かりやすく工夫し、市内を歩きながらガイドが街並みの歴史も解説する。 (後藤慎一)
昨年は市東部を舞台に開催されたが、今年の見学先は、市中心部から西部にかけて点在する二十カ所近くの戦跡。市内の戦跡では有名な八幡山(はちまんやま)公園に残る旧陸軍地下司令部跡の周辺、宇都宮中央女子高校の敷地内にある「歩兵第六六連隊」の厨房(ちゅうぼう)だった赤れんがの建物などを訪れる。
バスで移動しながら、一部は徒歩で約一時間かけて見て回る。軍隊の警察組織である憲兵隊の本部跡(現在は空き地)に残る塀など、戦時の痕跡や地形をたどりながら、当時の街並みを想像する。
宇都宮市はかつて旧陸軍の師団司令部や飛行場など多くの軍事関連施設が置かれ、「軍都」とも言われていた。ガイド役を務めるピースうつのみやの佐藤信明事務局長は「軍隊の跡地は、学校になっていることなどを若い人に分かってほしい」と、街の歴史を知ることで興味を深めてもらいたいと話す。
前身の「宇都宮平和祈念館をつくる会」から活動を続けるピースうつのみやは、会員が高齢化し、若い世代への継承が課題。インターネットでの情報発信が不足していたが、会議室などを利用するとちぎボランティアNPOセンター「ぽ・ぽ・ら」(宇都宮市)のフェイスブックを通じて主催イベントの告知などをしている。
先着四十人で、十八日までピースバスの参加者を募集している。資料代として五百円が必要。申し込みは、電話かファクスで佐藤事務局長=電028(621)8778=へ。

<サハリン残留者>「魂の集まる場所」札幌に共同墓所 - 毎日新聞(2016年5月15日)

http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0515/mai_160515_4208480494.html
http://megalodon.jp/2016-0515-1040-11/news.biglobe.ne.jp/domestic/0515/mai_160515_4208480494.html


戦後、樺太(現ロシア・サハリン)残留を強いられた邦人らを祖国で供養しようと、NPO法人「日本サハリン協会」(東京)などは14日、札幌市南区の藤野聖山園に共同墓所を建立し、落成式典と慰霊祭を行った。残留邦人らでつくる「サハリン日本人会(北海道人会)」の会員ら約120人が参列し、赤いカーネーションを献花した。【立松敏幸】
共同墓所は当初、経済的理由で墓を持てないサハリンからの永住帰国者のために計画。その後、帰国がかなわず亡くなった残留邦人の家族らが「樺太関係者の魂の集まる場所にしたい」などと要望し、残留邦人も含めた共同墓所とした。建設費400万円は寄付金で賄った。
共同墓所は広さ約5平方メートル。日本とサハリンに見立てた高さ約2メートルの墓石2本を並べており、両国の自由な往来を象徴してカモメを彫った。
この日は北海道稚内市に住む永住帰国者の川瀬信子さん(82)と金川民子さん(72)がそれぞれ夫の遺骨を納骨した。
式典では、永住帰国者代表の植松キクエさん(92)=札幌市南区=が「国の援助で生活している私たちは自力で墓が持てない。サハリンで苦労した人と入れる墓ができて、本当にありがたい」と謝辞を述べた。
日本サハリン協会によると、サハリン残留邦人はこれまで134世帯303人が永住帰国している。

◇「亡き夫も喜ぶ」
「とても安心した。主人は自分の母親が眠る日本を愛していたので、とても喜んでいるはず」。北海道稚内市金川民子さんは、稚内市内の寺に預けていた夫英男さん(享年66)の遺骨を納め、ホッとした表情を見せた。
民子さんはサハリン出身で、1998年に英男さんと結婚。日本への永住帰国を望んでいた英男さんと一緒に2000年10月に帰国した。稚内で生活を始め、2人ともがむしゃらに働いた。民子さんは61歳の時に道立有朋高校(札幌市)の通信制に入学。4年間かけて卒業し、日本語の読み書きもできるようになった。
2人に不幸が襲ったのは09年12月。英男さんが乗用車を運転中、誤って稚内港に転落し、帰らぬ人となった。大雪の日だった。「突然、亡くなるなんて考えてもいなかった」。墓を建てることができず、遺骨は市内の寺に預けた。
骨をうずめる覚悟でやって来た日本で、やっとその場所が見つかった。納骨の際、心の中で「安心して眠ってください」と英男さんに声をかけた。
民子さんは「年に1度は墓参りをしたい」。墓前で英男さんと語らうのを楽しみにしている。