戦時中、壁に思い記す 2年前解体 法政二中・高の「時計塔校舎」:神奈川 - 東京新聞(2016年5月15日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201605/CK2016051502000147.html
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法政大第二中・高校(川崎市中原区)の旧時計塔校舎の壁に、誰かが戦時中に書いたとみられる言葉があった。同市高津区の元高校教諭長坂伝八さん(70)らが調べ、筆者は同市中原区の故西村一明さんと判明。時計塔校舎は二〇一四年に取り壊され、壁書の現物は残っていないが、長坂さんは、戦争の恐ろしさと平和の尊さを後世に伝えるため、この言葉を紹介していくという。 (山本哲正)
時計塔校舎は一九三六年に建てられた。鉄骨コンクリート造りで、高さ約三十五メートル。内壁にチョークで書いたとみられる言葉があり、一部が欠けているが「皇国の為には何も惜しまず 身は砲弾に砕け るとも」と読めた。「西村 明」という署名もあった。
法政二高で社会科を教えていた長坂さんらは「平和を物語る建築」として、二〇一二年二月から時計塔校舎の保存運動を展開。川崎市も「景観重要建造物の指定方針を満たしている」と評価したが、同校の施設整備の一環で解体された。
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「皇国の為には〜」という壁書は字が薄く、建物の上の方にあったため、長坂さんも一四年一月、保存を願う協力者からの知らせでその存在を初めて知った。「西村明」の名前を法政大の名簿などで調べたが見つからず、一五年夏、地元のイベントで情報提供を求めると、数人から「中原区の西村さんなら知っている」と教えられた。同年九月、中原区内を訪ね歩き、レストラン経営の西村英雄さん(50)に会って切り出すと「それはおやじ。名前は一明です」と言われた。
英雄さんによると、一明さんは一九二七年二月九日生まれ。出征せず、市立川崎高校の事務長などを務め、定年退職後は趣味が高じて古美術商を開いた。よく昔話をし「在学中、時計塔に自分の名前と落書きをした」と話していたという。二〇一四年、八十七歳の誕生日に亡くなった。
英雄さんは、長坂さんから壁書の写真を見せられたとき、一明さんが人生のはかなさを桜に重ねていたので、「砕け る」は「砕け散る」だとピンときたという。これで空白だった文字が「一」と「散」だと突き止められた。
英雄さんは「父は『戦争に行って、お国のため、天皇陛下のため、万歳と死んでいくのが一番と言われていた。そう教育されていた』と話していました」。また、「『友人はどんどん戦地に行くのに、何で俺は…』と両親に不満をこぼしていたそうです」。   
長坂さんは英雄さんと相談し、筆者の存在を公表することにした。「壁書の写真を見てから一年半後に筆者が見つかる奇跡は想像していなかった」と喜びつつも、時計塔校舎が失われたことを惜しむ。法政大第二中・高校によると、壁書があることは知っていたが、解体により現物はないという。
長坂さんは「時計塔校舎を守ろうと活動した。壁書はその支えだった」と話し、機会をとらえて壁書の存在を広く伝えていく考えだ。