(筆洗) 母は息子が一年前から使っているはずのノートをひろげた。まっ… - 東京新聞(2021年7月30日)

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母は息子が一年前から使っているはずのノートをひろげた。まっさらだ。先生にちょっとは宿題も出してほしいと言うと反論された。毎日出しています、益川君だけがやってこないと。「だって、遊びのほうが面白いではないですか」。名古屋市での少年時代を理論物理学益川敏英さんが、人懐こい笑顔で振り返っていたのを覚えている。
苦手なことやきらいなことのある人だったようだ。特に英語。ノーベル賞の記念講演の大半を日本語で通していたのは記憶に残る。好きな学問に対しては熱かった。高校時代に物理学者の坂田昌一氏の理論を知り、魅了されると、そこから猛勉強を始めている。
難解な理論でノーベル物理学賞を受賞してからも、わが道を行く「益川君」や「益川青年」の面影が、どこかに残っていた方ではなかっただろうか。昨日、訃報が届いた。八十一歳だった。
ノーベル賞にいたる有名な入浴のエピソードも、学者のイメージから、少し外れている益川さんらしい。理論がうまくいかないという論文を書こうと風呂の中で考え、立ち上がったところでうまくいくアイデアがひらめいたという挿話である。
空襲を経験している。目の前に落ちた焼夷弾(しょういだん)が不発でなければ、ノーベル賞もない。反戦の学者だった坂田氏のように、平和への訴えも熱かった。
日本の未来を憂えた人が去った。寂しく残念な別れだ。