(筆洗) 外出自粛 - 東京新聞(2020年4月26日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2020042602000151.html

戦争中の家族を描く井上ひさしの「きらめく星座 昭和オデオン堂物語」にすき焼きをめぐる場面がある。
物のない時代。幸運にも手に入れた牛肉を前に家族らが考え込む。すき焼きをしても大丈夫か。匂いが近所に漏れ、暴動が起こらぬか。
「経済警察にかけこんだ人のゐたんですつて」「あそこの家がなぜすき焼ができるのか、しつかり調べてくださいと密告したわけです」。いやな時代である。
すき焼き密告が分からぬでもない現在か。新型コロナウイルス対策の外出自粛。自分は守っているのに遊びに出かける人もいる、休業を要請されているのに営業している店もあるではないか。程度の差こそあれ、こうした不満はどなたにもあるだろう。
警察への一一〇番通報が増えている地域もあるそうだ。内容は「あの店が営業をしているのはけしからん」という類いらしい。自粛はあくまで要請であって、無視しても、違反ではなく、警察の出る幕ではないのだが、文句を言わなくては気が治まらなくなっているのか。
徳島などでは「疎開」を疑い、他県ナンバーの車に対する嫌がらせ行為も報告される。自粛要請に平然と背を向ける人も嘆かわしいが、不自由な生活の中で、人々が次第に余裕を失い、「正義」を振りかざす風潮があるとすれば、これもまた恐ろしい。あのすき焼きの時代と変わらぬ。マスクなしでも息苦しい。