https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/514062
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87歳になる風間作一郎さんは、ちょうど60年前の行動を今も悔やんでいると明かす。「帰れ帰れ、と勧めてしまった。夢の国なんて宣伝は全部うそだった」。1959年12月、在日朝鮮人らの北朝鮮への帰国事業が始まった
▼新潟市が出港の地に選ばれ、地元の社会党員だった風間さんは送迎や警護に当たった。社会党だけではない。自民党も共産党も、経済界も労組も、各界各層が協力した
▼植民地支配の結果、日本に住んだ朝鮮人を戦後になって厄介者扱いした保守側と、社会主義の優位を宣伝したかった革新側。北朝鮮も宣伝効果と労働力を欲していた。関係者の思惑が奇妙な一致を見せた
▼当時、沖縄を巡る状況も似ていた。60年の日米安保条約改定に向け、政府は適用範囲にまだ復帰前だった沖縄を含めようとした。しかし保守側は核兵器を持ち込みにくくなる、革新側は沖縄を起点に米国の戦争に巻き込まれる-と懸念し、そろって拒否したのだった
▼敗戦の45年の暮れ、朝鮮と沖縄の人々が選挙権を奪われたのも同時だった。日本の都合で併合され、真っ先に切り捨てられる。差別に翻弄(ほんろう)された歩みが重なる
▼北朝鮮に帰国した約9万3千人はその後飢えと圧政に苦しみ、安否さえよく分からないまま。沖縄は安保の重圧に苦しんだまま。日本社会は、何ら清算しないままだ。(阿部岳)