[きょう「4・28」]今も続く「構造的差別」 - 沖縄タイムス(2019年4月28日)

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詩人の山之口貘は、講和会議を目前に控えた1951年夏、異郷で沖縄の行く末を案じ、一行また一行と悲痛な思いを書きつづった。
琉球よ 沖縄よ こんどはどこへ行くというのだ」
戦後日本の針路を決定づけたサンフランシスコ講和条約と旧安保条約は51年9月8日、サンフランシスコの別々の場所で締結され、翌52年4月28日、発効した。
講和条約によって日本は主権を回復したが、沖縄は切り離され、米国に施政権が委ねられた。
条約発効からきょうで67年になる。
56年11月、琉球列島民政長官によって行政主席に任命された保守の重鎮、当間重剛は施政方針演説で琉球政府の性格を「米国民政府の代行機関」と表現した。
米国民政府とは、沖縄統治のための米国政府の出先機関のことである。琉球政府出先機関の、そのまた代行機関というわけだ。
旧安保条約の締結に伴い、52年4月28日、条約と同じ日に、米軍の特権などを盛り込んだ日米行政協定が発効した。
協定は、極端な不平等性を備えていた。作家の山田風太郎は52年4月8日の日記にこう書き記している。
「独立の曉は-などというが、日本は独立などできはしないではないか。講和条約は発効しても、行政協定が新たに結ばれたではないか。自由未だ遼遠なり」
条約が発効して間もないころ、日本本土には600余りの米軍基地があったという。    ■    ■
基地問題を巡る沖縄と本土の関係が逆転し、米軍基地が沖縄に集中するようになるのは講和発効後、50年代に入ってからである。
そのころ、全国各地で米軍がらみの事件・事故が多発し、反対運動が高まった。米軍統治下の沖縄でも基地建設のための土地接収が相次いだ。
日本本土の基地問題は、憲法が適用される日本の施政下での問題であり、強権的に対応すれば反米感情を高め、安保体制そのものを脅かすおそれがあった。
憲法の適用を受けない米軍統治下の沖縄では軍事上の必要性がすべてに優先された。米国民政府と米軍は「布令布告」と「銃剣とブルドーザー」によって住民の抵抗を押し切って基地建設を進めた。
講和条約第3条が、基地の沖縄集中を可能にしたのである。日本政府は「日本の安全にかかわる問題」としてそれを追認してきた。

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「構造的差別」の源流は、ここにあると言っていい。「4・28」は、決して過ぎ去った過去の話ではない。
安倍政権は講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」と定め、2013年、沖縄側の強い反対を押し切って、政府主催の記念式典を開いた。
ここに安倍政権の沖縄に対する向き合い方が象徴的に示されていると言っていい。
講和・安保によって形成されたのは「沖縄基地の固定化」と「本土・沖縄の分断」である。
それが今も沖縄の人びとの上に重くのしかかっている。