「偉くならない」教皇フランシスコの来日 - 中島岳志|論座 - 朝日新聞社の言論サイト(2019年11月23日)

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若松 本来、信仰というもの、信ずるという行為は、つねに動き、変化していくものであるはずです。それを変化しないもの、止まっているものとしてとらえたときに、強い暴力性が生まれる。それが原理主義の実態ではないでしょうか。原理主義者にはもう「謎」は存在しない、ともいえます。しかし、「謎」がないところに真の意味での超越もまた、存在しえないのです。

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中島 福島第一原発事故の後、福島で農家の方が自殺するということがありました。ずっと耕してきた土地に放射能が降り注いで、もはや前のように作物を育てて生きてはいけないかもしれない。そのとき農家の方が抱いたのは、大地が汚染されたと同時に、自分のいのちもまた汚染されたという感覚だったのではないか。土地を耕すことが自分の生命の鼓動そのものでもあった、その営みが寸断されてしまったことに対する絶望だったと思うのです。
だから、一部でいうように「かわりに別の土地を確保すればいい」という問題ではない。所有物としての土地を失ったというだけの絶望ではないからです。アッシジのフランシスコが「被造物」として大地をも讃える、その感覚がそこにあるのだと思います。
もう一つ、教皇フランシスコが死刑に対して非常に強く反対していることも重要だと思います。これもやはり「いのち」の問題だと思うのです。他者の命を「合法的に」絶つことができる、つまりは人の命を所有することができるという観念自体に対する、強烈な懐疑。死刑は冤罪があるから駄目だといった法的な問題の前に、「いのちの所有」自体が許されない概念だという思いがあるのではないでしょうか。

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