諫早水門判決「有明海再生」で協議を - 東京新聞(2019年9月18日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019091802000147.html
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「開門」と「閉門」の司法のねじれがある。長崎・諫早湾干拓事業をめぐる裁判で、国側勝訴の高裁判決を最高裁が破棄し、差し戻した。混迷の原因は国側にある。漁農共存の道を図るべきだ。
二つの確定した司法判断が存在する奇妙な状態にある。一つは二〇一〇年の福岡高裁の「開門」判決。もう一つは今年六月にあった最高裁の「閉門」決定だ。今回の訴訟は事情が変わったとし、漁業者側から国側が「開門」を強制されないよう求めるものだ。
請求異議訴訟という。福岡高裁では「漁業権が一三年に消滅し、事情変更に当たる」との理屈で国側勝訴を導いた。だが、これはおかしい。漁業権は常に更新されており、開門命令もそれを前提になされたと考えるべきだからだ。
最高裁もその立場で高裁判決を破棄し、審理を高裁に差し戻した。ただ裁判長の補足意見として、開門判決が無効になる余地があることも示した。それなら結論が先延ばしになるだけだ。
司法のねじれが生じた最大の原因は、開門命令に国が従わなかったことではないのか。「ギロチン」と呼ばれた鋼板で水門を閉じたのが一九九七年のことだ。諫早湾の三分の一が閉め切られたことで深刻な漁業被害が出た。それゆえ漁業者が裁判を起こし、開門の確定判決を得たのだ。
国はそれに素直に従わず、制裁金を支払ってまで閉門を続けた。開門による塩害を恐れた営農者の裁判で勝訴すると、もはや閉門が既成事実化した。つまり漁業者と営農者の対立構図をつくり出したのは国ではないのか。
今後、司法のねじれが解消されても、地域の分断という不幸なしこりが残りうる。漁業者は話し合いに応じる姿勢はある。だが、大前提が「豊かな有明海の再生」であるはずだ。和解協議が始まるとしても、国は漁業者に一方的な譲歩を求めてはならない。
開門判決は三年の猶予期間を設け、五年に限る開門を命じた内容だった。国がそれに従っていれば、環境変化の原因究明がなされていたかもしれない。ならば、環境を顧みた対応策が考えられたかもしれない。
それを封じ込めた過去の国の対応は罪深いといえよう。漁業と農業の共存は可能であるはずで、混迷の原因をつくった国は責任を持ち、漁業者が納得できる内容で、協議の場を設けるべきである。和解の糸口を探り、長い法廷闘争に区切りをつけたい。