やじ排除発言 「表現の自由」の曲解だ - 東京新聞(2019年8月30日)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019083002000164.html
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選挙の街頭演説にやじを飛ばした人がまた、警察に取り押さえられた。柴山昌彦文部科学相は、やじは「権利として保障されていない」というが、「表現の自由」を理解していないのではないか。
選挙の街頭演説を、私たち聴衆はひと言も発せず、黙って聞け、ということなのか。
埼玉県知事選の投開票前日、二十四日夜の出来事である。JR大宮駅近くで自民、公明両党推薦候補の応援演説をしていた柴山氏に対し、「柴山辞めろ」とか大学入試共通テストの「民間試験撤廃」などとやじを飛ばした男性が、埼玉県警の警察官数人に囲まれ、遠ざけられた。
柴山氏は二十七日、閣議後会見で「表現の自由は最大限保障されなければならないが、集まった人たちは候補者や応援弁士の発言を聞きたいと思って来ている。大声を出したりすることは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と県警の行為を擁護したが、「表現の自由」を曲げて解釈しているのではないか。
もちろん政治活動の自由は最大限尊重されるべきで、公職選挙法は選挙演説の妨害を禁じている。
しかし、駅前という開かれた場での選挙活動である。そこに集まった人たちには政権の支持者もそうでない人たちもいて当然だ。そうした場でも、政策への賛否を言い表すことは許されないのか。
埼玉の事例は、やじで演説が続行できなくなるような悪質な行為に当たるとはとても思えない。もし選挙妨害に当たらない段階で、公権力がやじを強制排除したのなら、明らかに行き過ぎだ。
柴山氏が政治家として語るべきは、警察の介入を正当化することではなく、警察の公権力行使が表現の自由を侵しかねないことへの懸念ではなかったのか。
七月の参院選でも、札幌市で行われた安倍晋三首相の街頭演説でやじを飛ばした男女が北海道警の警察官らに相次いで排除された。道警は「現場でのトラブル防止の観点から措置を講じた」とするだけで、詳しい説明はしていない。
政権に異を唱える発言が、トラブル防止を名目に警察に排除される。公権力を行使する立場にある政治家は、表現の自由を尊重すると言うものの、実際に侵されても放置する。こんなことが安倍「長期」政権で続く。
その背景に、批判や異論に耳を傾けようとしない不寛容な政権の体質があるとしたら、構造的問題であり、根が深い。