針路を探る 表現の自由への圧力 個の足場を守るために - 信濃毎日新聞(2020年1月5日)

https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20200105/KP200104ETI090001000.php
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憲法の縛りを払いのけるような政権の振る舞いが、民主主義の足場を揺さぶっている。行政文書は改ざん、廃棄され、政策や意思決定の過程は闇に紛れた。国会は追認機関と化し、政府を監視する役目を果たせていない。
そして、政権の姿勢と呼応するように、異論を排除する空気が社会にまん延し、表現の自由が脅かされている現状がある。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止に至った事態は、それをあらわにしてみせた。

<わき上がる排撃の声>

芸術表現の政治性をめぐって、美術展で作品が撤去、修正されたことは過去にも少なからずある。不自由展そのものが、発表の場を奪われた作品を通して、表現を取り巻く状況を問う試みだった。
今回の事態がこれまでと様相を異にするのは、特定の団体や集団にとどまらず、排撃する声がわき上がるように起きたことだ。戦時下の慰安婦を象徴する少女像などに、「電凸(でんとつ)」と呼ばれる抗議の電話が殺到し、わずか3日で会場は閉ざされた。放火をにおわす脅迫のファクスも届いた。
政治権力の干渉、介入がそれを勢いづかせた側面がある。河村たかし名古屋市長の言動はその最たるものだろう。少女像を「日本人の心を踏みにじるもの」と断じ、声高に展示中止を要求した。
さらに見過ごせないのは、政府の圧力だ。菅義偉官房長官が開幕翌日、既に採択していた補助金の見直しに言及し、その後、全額不交付を決めた。経過は不透明で、政治判断としか受け取れない。
芸術文化活動への公的支援の対象を政府が恣意(しい)的に選別するのは検閲と実質的に同じ意味を持つ。危うい公権力の姿勢と、「反日」といった言葉で表現の自由が包囲されていくさまは、戦時下の状況とも重なり合って見えてくる。

<物言えぬ社会が再び>

検閲は世間と共振していた―。近現代史の研究者で作家の辻田真佐憲(まさのり)さんは著書「空気の検閲」で述べている。国策に同調しない人に浴びせられた「非国民」「国賊」という非難。言論の統制は、強権だけでなく、社会に充満する空気によって成り立っていた。
今また、圧迫は至るところで強まっている。昨年7月の参院選では、札幌での安倍晋三首相の演説にやじを飛ばした人が警察に排除された。翌月の埼玉県知事選でも、文部科学相の応援演説会場で大学入試改革を批判した学生が警察官に取り囲まれ、遠ざけられた。
長崎の公立中学校では、講話を依頼された被爆者が、憲法には触れないよう求められた。抗議したが聞き入れられず、講話は中止に。「憲法平和教育の範囲外」だと校長は話したという。
報道への政権、与党による圧力もあからさまだ。自民党はテレビの選挙報道に注文をつけ、総務相は放送局に電波の停止を命じる可能性にまで言及した。
報道を萎縮させる脅しと言うほかない。官邸での官房長官の会見では、特定の記者の質問を妨害しているとしか思えない対応が繰り返された。
情報を統制し、市民への監視を強める法制度も次々とつくられている。政府が持つ広範な情報を覆い隠し、漏えいに厳罰を科す特定秘密保護法。幅広い犯罪について、合意したと見なした全ての人に処罰の網をかける共謀罪法…。その先に、物言えぬ社会が再び姿を現そうとしていないか。
表現の自由は当たり前にあるのではない。不自由展の中止はそのことを突きつけた。であればこそ、閉幕間際の短い期間とはいえ、再開できた意味は大きい。

<自分の言葉を発する>

最大の力となったのは、国内外の美術作家たちの意思表示だ。海外からトリエンナーレに参加した作家が、中止を検閲と受けとめて強く抗議し、触発されるように国内の作家たちが声を上げた。
川崎市が共催した映画祭でも、慰安婦問題を扱った映画「主戦場」の上映がいったん中止されながら、関係者や市民が動いて覆した。圧迫が強まる一方で、それを押し返す動きが起きている。
とはいえ、胸をなで下ろせる状況にはない。批判を浴びそうな作品をあらかじめ封じるような形で、自由が後退しないか。注意深く目を向けていく必要がある。
表現の自由は民主主義の基盤としてだけでなく、一人一人が社会や他者と関わり、自律して生きていくために欠かせないものだ。政治権力の統制下に置かれ、暴力や威圧におびえて縮こまるしかなくなれば、社会は単色に染まり、個の尊厳は保てなくなる。
誰かの自由が脅かされているのを見過ごせば、自分が生きる足場も崩れていく。一人の、少しのためらいが積み重なって、物言えぬ空気は膨張する。自由をめぐって何が今起きているのかに目を凝らし、自分の言葉を発したい。