[宮森小墜落事故60年]悲しみを平和への力に - 沖縄タイムス(2019年6月30日)

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沖縄戦が終わって14年、戦場の辛酸をなめ尽くした人々が、ようやく生活の落ち着きを取り戻したころだった。
1959年6月30日午前10時40分ごろ、嘉手納基地を離陸した米軍のジエット戦闘機が、石川市(現うるま市)の住宅地域に墜落炎上し、宮森小学校の校舎に激突した。
死亡17人(児童11人、一般6人)、重軽傷210人(のち後遺症で1人死亡)。
米軍統治下の沖縄で起きた最大の墜落事故からきょうで60年になる。
全焼した教室のがれきと灰の中から見つかった4年生の女の子は、判別がつかないほど全身にやけどを負い、黒焦げの状態で命を落とした。
墜落の衝撃でとっさに「戦争が来た」と叫び、教室の窓から逃げた男の子もいる。
生き残った子どもたちには長くトラウマ(心的外傷)が残った。
「思い出したくない」「そっとしてほしい」-事故について語るのを避け、口を閉ざしていた遺族が「忘れたくない」「忘れてほしくない」という気持ちを抱くようになったのは、単に時間の経過がそうさせただけではない。
関係者がNPO法人「石川・宮森630会」を結成し、資料館の設置や証言集の発行など、積極的に記憶の継承に取り組んできたからだ。
事故の全容解明作業に大きな転機をもたらしたのは、米公文書館所属の資料などを翻訳した「資料集 石川・宮森の惨劇」の出版である。
事故原因や損害賠償の交渉経過などがようやく明らかになった。

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米軍は当初、「突然のエンジントラブルで、不可抗力だった」と語り、責任を認めなかった。
だが、当時公表されることのなかった米軍内部の調査結果は「整備過失(メンテナンスエラー)」が事故の主な原因であることを認めていた。
整備における注意義務違反が幾重にも重なった末に、大惨事を招いたのである。
被害の適正補償を求める運動は、政党、団体などを網羅する形で燃え広がった。
軍用地問題を巡って「島ぐるみ運動」を展開し、米軍から譲歩を引き出した組織・団体は、宮森小事故を巡っても「島ぐるみ運動」を組織し、交渉を進めた。
米軍側と被災者の主張の隔たりが大きく、補償交渉は難航した。60年にアイゼンハワー米大統領の来沖や日米安保条約の改定を控えていたことから、米軍は反米感情が高まるのをおそれ、政治的な決着を優先させた。

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宮森小墜落事故から60年。何が変わったというのだろうか。当時、巡回教師として遺体安置所を担当した豊濱光輝さんは証言集3に一文を寄せ、こう締めくくっている。
「亡くなった18人に今、言いたいことはありませんかと聞いたら、次の言葉が返ってくると思います。『私たちは、死にたくなかった』と」。
18人の無念の死と好対照なのは、パイロットが直前にパラシュートで脱出し、無事だったことである。
基地を巡る沖縄の現実は今なお、あまりにも理不尽だ。