B52墜落から50年 命脅かす駐留許されない - 琉球新報(2018年11月19日)

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-836085.html
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1968年11月19日に米軍のB52戦略爆撃機が離陸に失敗し、嘉手納基地に墜落してから、きょうで50年を迎えた。その後も米軍機は墜落を繰り返している。県民の生命を危険にさらす環境は50年前も今も変わっていない。基地ある限り、同じ状況が続くのか。それを県民が引き受け続けるのはあまりに理不尽だ。
7日前には南大東島の南西約140キロ沖にFA18戦闘攻撃機が墜落している。沖縄では72年の日本復帰から46年間で50機の米軍機が墜落した。年1回以上の頻度で、米軍機が空から落ちている。極めて異常ではないか。
50年前に事故を起こしたB52は68年2月から嘉手納基地で常駐を開始した。当時、米国が戦争をしていたベトナムで絨毯(じゅうたん)爆撃を繰り返しており、多くの住民の命を奪った。このためベトナムでは「死の鳥」と呼ばれていた。
事故当日も6機がベトナム出撃のため嘉手納基地を60秒間隔で離陸し、墜落したのは5機目の機体だった。20トンの爆弾を搭載していたため、墜落後、これらの爆弾も激しく爆発を繰り返した。
沖縄から飛び立った爆撃機が当時、これらの爆弾をベトナムの人々に投下し続けた。あまりにも非人道的で残虐な行為だ。沖縄戦で肉親を奪われた住民は、やりきれない思いで出撃を見つめるほかなかった。
地響きと爆風にさらされた近隣の住民は嘉手納基地がベトナム戦争の報復で攻撃を受けたと思った人もいた。住民4人が負傷し、民家159戸が被害を受けた。
墜落事故は戦後の沖縄で連綿と続いた。59年にうるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落し、児童11人を含む18人が死亡した。61年にうるま市(旧具志川村)の川崎で米軍ジェット機が墜落し、住民2人が命を落とした。
住民の死傷者こそ出なかったが、2004年には沖縄国際大学に米海兵隊のCH53D型ヘリが墜落し、16年には名護市安部の海岸に垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが墜落した。
墜落が起こるたび、米高官や軍幹部らは事故を過小評価する発言を繰り返してきた。B52墜落の後、国務省日本部長は「自動車や旅客機にも事故はある」と述べた。沖国大の墜落では在日米軍司令官が「人のいない所に持って行った。素晴らしい功績があった」と操縦士をたたえた。
今年1月にも在沖米海兵隊政務外交部長が相次ぐ米軍機の事故について「車も故障する」と言った。米軍にとって、墜落事故など想定内の出来事なのかもしれない。しかし地上で暮らす県民はたまったものではない。
これ以上、米軍駐留によって県民の暮らしと命が危険にさらされ、脅かされることは許されない。B52墜落から50年を機に、日米両政府はそのことを肝に銘じるべきだ。