宮森小墜落事故60年 危険な状況は変わらない - 琉球新報(2019年6月30日)

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ミルク給食を待っていた児童たちを突然、ごう音と火の玉が襲った。死者18人、重軽傷者210人を出した石川市(現うるま市)の宮森小学校米軍ジェット機墜落から60年がたった。
人為的ミスによる事故だったにもかかわらず原因は伏せられ、事故後の賠償も不十分だった。米施政権下の沖縄で、住民の命が軽んじられた象徴的な事故だ。そんな理不尽な戦後史を伝え続けなければならない。
墜落事故は1959年6月30日に起きた。嘉手納基地所属の米軍ジェット機F100が石川市の住宅地に墜落し、衝撃で跳ね上がった機体が宮森小に突っ込んだ。犠牲者のうち児童は12人だった。パイロットはパラシュートで脱出し、けがはなかった。
事故後の米軍の対応は不誠実極まりない。米軍は事故原因を「故障による不可抗力」と発表した。しかしその後、米空軍がまとめた事故調査報告書では、事故の「最大の要因は整備ミス」で、人為的な原因だったと結論付けていた。整備不良だったのに整備監督者が飛行を認め、燃料が漏れてエンジン熱で引火した。
そもそも墜落したF100戦闘機は開発段階から事故を繰り返し、47人のパイロットが死亡する“欠陥機”であった。しかし、事故原因も欠陥機であることも沖縄の人々に説明されることはなかった。事故の概要が分かるのは石川・宮森630会が地道に米軍資料や証言収集に取り組んできたことが大きい。
60年前のこの事故は決して過ぎた出来事ではない。沖縄が日本に復帰してから今に至るまで米軍機の事故は相次ぎ、悲劇を生む構造は何も変わっていないからだ。
ことし6月4日、浦添市の中学校に米軍ヘリが羽についているゴムシートを落下させた。2017年12月には普天間第二小学校の運動場に約8キロもある米軍ヘリの窓が落ちた。その前には宜野湾市の保育園の屋根に米軍機の部品が落下している。幸いけが人はなかったが、子どもたちの上に落ちていたらどうなっていたか。
これだけの事故が繰り返されながら、米軍の対応は60年前と同じだ。事故後も、原因を究明し公表する前に飛行訓練を再開し、学校の上空を飛び交っている。保育園の事故に至っては、部品が米軍の物だとは認めたが、落としてはないと主張している。
米軍普天間飛行場にMV22オスプレイを配備する際も、防衛省は「事故率は他機種より低い。飛行時間の増加に伴い(事故率は)低下する」と説明してきた。しかし10万時間当たりのクラスA(重大)事故は配備時の12年の1・65から18年には2・85と逆に増えた。16年の名護市安部への墜落事故は記憶に新しい。
日米両政府は宮森小の悲劇から何も学んでいないのではないか。県民の命は今も危険にさらされ続けている。