(余録) 歴史の女神クリオが携えるのは… - 毎日新聞(2019年6月1日)

https://mainichi.jp/articles/20190601/ddm/001/070/103000c
http://archive.today/2019.06.02-014003/https://mainichi.jp/articles/20190601/ddm/001/070/103000c

歴史の女神クリオが携えるのはラッパと書物、頭には月桂樹(げっけいじゅ)の冠をかぶっている。月桂冠とラッパは勝利と名声を表し、書物には勝者の栄光が記されている。歴史とは勝ち残った者の記録という寓意(ぐうい)なのだろう。
中国の民主化を求める学生らが武力排除された天安門事件から4日で30年となる。今も思い出すのは、広場を占拠する学生への趙紫陽(ちょうしよう)中国共産党総書記(当時)の涙の説得と、流血の弾圧後に戦車の前に立ちはだかった男の姿である。
学生に理解を示した趙総書記は失脚、軟禁状態のまま14年前に亡くなった。「歴史における私の使命は終わった」。武力弾圧の方針が決まった時、それに反対した趙総書記は語った。学生らへの銃撃の音を彼は自宅で聞くことになる。
急成長を遂げ、米国との覇権争いを繰り広げる30年後の中国である。一党支配は揺らぐどころか、今や国民にハイテク監視の網をかぶせ、天安門事件も情報統制の闇に封じ込めた。クリオのラッパは失われた命や理想をかえりみない。
だが今日、米中技術覇権争いの根源をなすのは中国の一党強権体制が世界の情報ハイテクを支配することへの強い懸念である。超管理社会をもたらす技術を民主的な歯止めのない権力が独占することへの嫌悪は世界が共有していよう。
クリオの書物には「イフ」はないが、人々が想像するのは止めない。もしあの時、趙総書記らの政治改革が実現していたら世界はどうなっていたろう。女神も勝者の歴史の退屈さにはうんざりなのだろう。