中国帰国者の介護(上) 「選べない人」支える - 東京新聞(2018年9月12日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201809/CK2018091202000188.html
https://megalodon.jp/2018-0912-1550-54/www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/201809/CK2018091202000188.html

戦前や戦中に旧満州(現中国東北部)へ両親と一緒に渡り、戦後、帰国した人たちにも介護が必要な人が増えてきた。現地で成人し、戦後数十年して戻った人には、中国の風習や言葉になじみ、日本の施設に溶け込めない人も少なくない。そうした人が増えつつある中、職員も利用者も一緒になって、言葉や文化の壁を乗り越える施設もある。 (出口有紀)
「こんなふうだっけ?」。名古屋市中川区のデイサービス施設「ひかりの里」で、同市に住む利用者の女性(80)が施設長で中国出身の劉辰(りゅうしん)さん(29)に尋ねる。女性が劉さんに見せたのは、平仮名の「し」の文字。女性は「くものうえまで かおだして」と、童謡「背くらべ」の歌詞を書き取っている最中だ。
女性は一九四二年、両親と中国東北部黒竜江省へ渡った。四歳の時だった。父親が終戦直前に死亡し、母親は中国人と再婚。女性も成人して中国で結婚して三人の子どもをもうけ、半世紀以上を中国で過ごした。子どもらと帰国したのは五十八歳の時。日本語の教育を受けたが、なかなか上達しなかった。
施設に通い始めたのは三年ほど前。「ずっと日本に帰りたいと願ってきたのに、実際に帰国したら言葉が分からない」。外へ出るのがつらくなり、家にこもるようになった女性を心配した長女が連れてきた。
現在、施設では利用者十八人のうちの半数ほどが帰国者やその配偶者の中国人ら。皆、言葉や文化の違いに悩み、劉さんのほか、運営会社の社長、王洋(おうよう)さん(31)も中国出身で、中国語が通じるこの施設を利用するようになった。
施設はもともと日本人向け。当初から中国語を話す人を積極的に受け入れようとしたわけではない。王さんは、文化の違いによってぎくしゃくするのを懸念し、帰国者らの利用者を三割程度に抑えた方がいいと考えていた。
実際、三年ほど前から帰国者らが増え始めると「わけが分からない言葉を話す」などと、以前からの利用者が訴えてくるようになった。王さんは帰国者らの利用を断るかどうか悩んだ。だが、ある職員が「施設を選べる日本人と違って、帰国者の人たちはここしか来られるところがない」と、不満を訴える利用者たちに話しているのを聞き、「その通りだ」と腹をくくった。しかし、受け入れを進めると、来なくなる日本人利用者も。経営が厳しくなった時期もあるが「引き続き利用する人たちはお互いに距離を縮め、分かり合えるようになった」という。
帰国者らのコミュニケーションを支えるのは王さんや劉さんだけではない。「イー、アー、サン…」。日本人職員の飯田さとみさん(57)が、トランプを中国語で数えながら配る。笑い声を立てながら帰国者らが「発音が違うよ」と言うと、飯田さんは女性に「あなたが言ってみて」と声を掛け、輪に引き込む。引き続き「四は?」「九は?」と利用者たちに聞くと、笑いが起こる。施設に溶け込もうと努めてきた女性の顔にも笑みが広がる。
飯田さんは、言葉以外のコミュニケーションも大切にする。帰国者たちの肩に手を置いたり、背中をさすったり、手をつないだり。「手を握り返してくれる時もあって、それはうれしい瞬間」と話す。
劉さんは、言葉や文化の違いを乗り越えつつある施設についてこう話す。「中国に長くいた人には、レクリエーションを恥ずかしいと感じて参加を嫌がる人もいる。でも、日本人の職員や利用者が誘うと参加する。おかげで、雰囲気がよくなっています」

<メモ> 1931(昭和6)年の満州事変から45年の終戦までに、旧満州に開拓移民として約30万人が渡ったとされる。終戦後に引き揚げてきた人たちもいるが、終戦前後の混乱で、帰国できなかった中国残留日本人も相当数に上った。72年の中国との国交正常化以降、帰国が本格化し、配偶者らを含め2万人余りが永住帰国している。