8・15 終わっとらんかった 第二能登丸 13日後に米機雷で爆発 - 中日新聞(2018年8月15日)

http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2018081502100013.html
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犠牲者名簿に名前「生存」の松本さん
「ひどい爆発でいっぺんに大勢死んだ。八月十五日で戦争は終わっとらんかったんや」−。玉音放送から十三日後の一九四五年八月二十八日夕、木造の連絡船「第二能登丸」が石川県の七尾湾で米軍が敷設した機雷で爆発、住民ら二十八人が犠牲になった。平成最後の終戦記念日を前に、同乗の父姉を亡くした同県中能登町の松本(旧姓原田)武夫さん(82)が、戦後七十三年にわたり封印してきた体験談を初めて語った。(前口憲幸)
「八月が来るたんびに思い出す。何十年たっても忘れん」。時折、目を閉じながら口を開いた。その瞬間、船から投げ出され、渦を巻く海でもがいた。がぶっと水を飲み、父親を捜して「とーと、とーと」と叫んだ。男の人も女の人も両手を上げたまま沈んでいった。「戦争終わってから、本当の地獄見たんや」
敗戦から十日余り。父親と二人で和倉温泉につかった帰りだった。勤労動員の作業を終えた七つ上の姉と合流。初めて第二能登丸に乗った。五十人はいただろうか。ほぼ中央の機関室近くに座った。右隣に父親。姉は少し離れた前にいた。
七尾湾を真っすぐ進み、能登島へ。最初の経由地・久美で何人か降りた。「もう降りるんか」。そう尋ねて立ち上がると右手を下にグッと引っ張られた。「まだや。ねまっとれ(座ってなさい)」。これが記憶する父親の最後の言葉だ。
次の経由地を目指し、再び動きだした第二能登丸。まもなく悲劇は起きる。
爆発の衝撃は覚えがない。気が付くと海だった。必死で船の破片にしがみついた。「渦にのみ込まれてぐるぐる回った。波のあちこちに人の頭とか腕が見えた。そして消えていった」
手こぎの舟に助けられた記憶が残る。ぬれた体にむしろを巻き、たき火にあたった。父親と姉の死は入院先の病床で告げられた。
退院後、登校すると周囲に「しんがえり」とからかわれた。死にかけたのに生き残った「死に帰り」が由来という。今もふとした瞬間、ぐるぐる回る海や揺れるたき火の炎を思い出す。「どれも忘れてしまいたいけど頭にこべりついとる」

 本紙は船を所有した七尾海陸運送が六二年四月十一日付で作成したとみられる事故報告書を入手。犠牲者名簿の中に松本さんの名があった。自らの名が犠牲者名簿にあることを本紙の取材で知った松本さんは少しも驚かずに言った。「死んどっても全く不思議でない。悲惨な現場やった」