過酷な体験 沈黙破り若い人へ 小平の「語り継ぐ会」 映像に残す活動 - 東京新聞(2017年8月25日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017082502000248.html
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安倍政権が九条改憲を目指す中、戦争体験を胸にしまってきた人たちが「若い人に語り継いでもらいたい」と口を開き始めた。東京都小平市の「戦争を語り継ぐ会」は七月の発足以来、会員の戦争体験者が語る姿を映像に収めている。DVDを制作する予定で、体験を語り継いでくれる若い人の参加も呼び掛けている。 (服部展和)
「飢えと病で幼い子から命を落としていった」
今月四日、小平市の都営住宅集会所で開かれた同会の会合。元教員の阿部正晃さん(85)=同市=は、終戦後に旧満州中国東北部)から引き揚げるまでの過酷な体験をビデオカメラの前で語り始めた。七、八十代の約十人が耳を傾ける。
大分市生まれ。三歳の時、教員の父親の転勤に伴い、家族で旧満州へ渡った。終戦二日前の一九四五年八月十三日、中学一年だった阿部さんと家族六人の生活は一変した。教員の家族は大人の男性は残り、女性と子ども約二百三十人は駅から貨車に押し込まれた。
終戦平壌南西の鎮南浦(ちんなんぽ)(現南浦)で迎えた。壊れかけた労働者の空き宿舎に避難したが、侵攻してきたソ連兵に小銃を突き付けられ、足止めされた。「手持ちの食料はすぐに底を突き、雑草も口にした」
はしかが流行し、幼児を中心に犠牲者が相次いだ。十一月下旬、末の妹の京子さんが一歳五カ月で命を落とした。近くの丘の凍った地面に穴を掘り、埋葬した。引き揚げ船で長崎県佐世保市にたどり着いたのは四六年十月。死者は約八十人に上っていた。
小中学校の教員時代もその後も、子どもに戦争体験を話すことに躊躇(ちゅうちょ)した。しかし、父親が戦死し、広島県呉市で空襲に遭った常松尚(たかし)さん(84)=小平市=らと今年六月、安全保障関連法や「共謀罪」法について話したことが転機に。「社会情勢が開戦前と似ている今だからこそ、弱者が犠牲になる戦争の現実を語るべきだ」。会の発起人になった。
阿部さんの自宅の仏壇に高さ十センチ余りの木の位牌(いはい)がある。妹が亡くなった時、鎮南浦の宿舎の一部を削って作った。「位牌に手を合わせるたびに、今は訪れることができない地に眠る妹に『戦争を繰り返さない』と誓う」

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戦争を語り継ぐ会は毎月第一金曜日に開催。次回は九月一日午後二時から、西武鉄道小平駅近くのうさぎ薬局二階の会議室(小平市美園町一)で。問い合わせは常松さん=電042(343)9785=へ。

語り部の育成 被爆地でも力
戦争体験者が高齢化する中、広島、長崎では被爆体験の「語り部」の育成が本格化している。
広島市は2012年度から、ボランティアの「被爆体験伝承者」養成事業を始めた。伝承者は3年間で少なくとも十数回の研修を受け、被爆者本人の承認を得た上で講話できる。男女89人が登録し、広島平和記念資料館などで活動している。
長崎市でも14年度、被爆体験を語り継ぐ「証言者」の募集を始めた。当初は被爆者の家族に限っていたが、16年度からは一般にも対象を拡大。市によると、修学旅行時などの講話依頼は年に1200件を超え、被爆者だけで対応するのは年々難しくなっている。被爆した祖母(95)を持ち、証言者として活動する市被爆継承課の三根礼華(みねあやか)さん(29)は「本人が語るのに比べて、3割や5割程度しか伝わらないかもしれない。でも、被爆者がゼロになってからでは手遅れなんです」と話す。 (中野祐紀)