樺太の悲劇 伝えたい 千葉移動展 27〜30日に:千葉 - 東京新聞(2016年10月16日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201610/CK2016101602000150.html
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日本が統治していた樺太(サハリン)南部で戦前戦中に人々が見聞きした体験や、内地に引き揚げ後の生活を、豊富な写真と文献で振り返る樺太関係資料館(札幌市)の千葉移動展が27〜30日、千葉市中央区中央4のきぼーるで開かれる。企画した全国樺太連盟副会長で、我孫子市在住の金谷哲次郎さん(85)は「わずか70余年前、豊かな暮らしの場が北の地に築かれていたことを若い人に知ってほしい」と来場を呼び掛ける。 (堀場達)
表題は「奪われて七十一年 故郷(ふるさと)『樺太』」。一九〇五(明治三十八)年に北緯五〇度以南の樺太が領有化されてから移住した人々が営んでいた生活の様子▽終戦の年、四五(昭和二十)年八月九日、日ソ中立条約を破棄して侵攻したソ連軍との戦闘などによって、多くの民間人が死亡した実情▽引き揚げ者が内地で体験した労苦−の三点を中心に紹介する。
樺太の呼び名すら知られなくなってきたが、最盛時は五十万人に及ぶ日本人が生活していた。水産業、工業なども発展し、国内需要の約六割の製紙が生産された。これらを伝えていきたい」と金谷さんは話す。樺太での生活体験者が年々減っていくことに危機感を抱いた連盟は、二〇〇三年以来、全国各地で巡回展示を開催してきた。
金谷さんは、ソ連軍の侵攻時、現地の旧制真岡中学校二年生だった。母方の祖父はソ連軍に銃殺され、侵攻される直前に同級生の父親の軍人が刀で家族らの命を絶った後、自決するなど、身近な人々が犠牲となった。金谷さんが北海道に引き揚げたのは一九四七年七月。ソ連軍が支配する故郷の樺太で二年近く暮らすことを余儀なくされた。
軍政下では、父親の菊松さん(九四年に九十二歳で死去)が秘密警察に連行され、四日間帰宅しなかった。「戻ってきた時、黒い頭髪が真っ白に変わっていた。体の随所にアザが残り、拷問されたかもしれない。何があったか、父は亡くなるまで口をつぐみ、私も聞けなかった」。菊松さんは日本の統治時、物資配給の仕事に就いており、金谷さんは「戦争(遂行の)協力者リストに入れられていたのだろう」と明かす。当時は、こうした悲惨で非道な事件が日常的に繰り返されたという。
移動展は各日とも午前十時〜午後六時、県教育委員会東京新聞千葉支局など後援。会場のきぼーるは千葉都市モノレール葭川公園駅から徒歩約五分。