沖縄戦22収容所で住民6400人死亡 米軍保護下で栄養失調や感染症 - 東京新聞(2016年6月19日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201606/CK2016061902000141.html
http://megalodon.jp/2016-0619-1513-26/www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201606/CK2016061902000141.html


米軍が一九四五年四月に沖縄本島に上陸して以降、占領地域に設けた収容所で計約六千四百人の民間人が死亡していたことが、本紙と沖縄社会経済史研究室主宰の川平(かびら)成雄・元琉球大教授の共同調査で分かった。各地の収容所の総人数はピーク時に三十三万人を超え、栄養失調や感染症による死亡者が続出。米軍の保護下での食糧不足などで、収容された住民に多大な犠牲が出ていた実態が浮き彫りとなった。 (編集委員・吉原康和)
米軍は沖縄戦で、占領した地域から順に軍政を敷き、民間人収容所を設けた。共同調査では、少なくとも二十二カ所の収容所で計六千四百二十三人の死者が出ていたことが判明。各地の収容所は統廃合の末、四五年十月ごろには十六カ所に集約され、大半が四六年までに閉鎖された。
収容所の所在地を現在の自治体に当てはめると、うるま市以北の名護市、宜野座(ぎのざ)村など、沖縄本島北部四自治体にあった十三収容所の死亡者が計約三千四百人に上り、全体の半数以上を占めた。日本軍が四五年五月に南部に撤退した後、米軍は取り残されたりした中南部の住民の大半を北部の収容所に送り、死者数も増えた。
死亡者数が最も多かったのは、南部の知念(ちねん)(現南城市)の収容所で二千四十二人。死因が判明しているのは一部の収容所に限られるが、大川(現名護市)ではマラリア感染で七百人が死亡し、汀間(ていま)(同)の死者二百三十六人のうち、半数近くの九十八人の死因が胃腸病だった。
米軍は沖縄戦で、民間人二十四万人に一人当たり一日一・九リットルの水のほか、食糧七万食の調達を計画。だが、民間人収容所の住民は四五年八月に計約三十三万四千人に達し、食糧供給は限界を超えていた。
平氏は「民間人収容所の設置には、沖縄戦をスムーズに戦う狙いがあった。収容者を米軍施設建設や、沖縄の『戦後』復興に利用しようとした米軍の政策意図も読み取れる」と話す。

◆本紙共同調査の方法
調査は、米軍の民間人収容所で亡くなった住民の死者数を、収容所単位で抽出することに主眼を置いた。
死亡者の氏名、年齢、出身地、死没年月日などが記された古知屋(こちや・現宜野座村)や瀬嵩(せだけ・現名護市)など4カ所の収容所の共同墓地の埋葬者名簿や墓地台帳をはじめ▽住民への聞き取り調査などに基づく収容所に関する市町村史▽収容所に勤務していた米兵の日誌−などに記述がある収容所の死者数を集計。自治体には可能な限りデータの根拠を確認した。
市町村史に出身者の死者数の記録があっても、共同墓地の埋葬者名簿や墓地台帳にその市町村出身の死亡者名がある場合、重複を避けるため集計から除外した。

<米軍の民間人収容所> 米軍は沖縄戦で捕らえたり、投降した日本兵の捕虜収容所とは別に、占領した地域の住民向けの民間人収容所を各地に設置した。中には、集落全体を管理下に置き、有刺鉄線に囲まれていない草地にテントを張っただけの所もあった。食糧は米軍からの無償配給で1日数回の配給時には長い列ができた。収容は住民の保護に寄与する一方で、栄養失調やマラリアなどで死亡者が相次いだ。収容所での死亡者総数を示す米軍の記録は見つかっていない。